2018年 の投稿一覧

合気練功倶楽部: 倶(共)に楽しむ部屋について

先日、3連続の東京集中講座の最終回が行われ、今回も参加された受講者の方々と楽しく練功することができた(打ち上げの会では歓待を受けました。本当にありがとうございました)。月1回、合計3回の講座であそこまで感覚を得ていらっしゃる状況に少々驚きを、そして合気練功に対する熱意に敬意を感じた。聞くところによると自主的に練習会を行って功を積んできたとのこと。素晴らしい!

やはり合気練功の胆は「感覚」である。アスリートが練習を怠たり、試合から遠ざかると勝負勘が損なわれるが、それと同じように絶えず感覚を意識して磨いていかないと合気練功の勘どころは鈍る。鈍ればやはり思うようにいかなくなる。定期的に練功して感覚の維持に努めて琢磨していないと、容易に振り出しに戻ってしまう(最近、足圧の技術に衰えを感じて焦っております…)。
以前、自分の仕事が忙しくて月に1,2度しか練功に顔を出さなかったとき、塾長から「もう少し間を詰めて集中してやればわかるようになるのだけどね…。」と言われたことが懐かしく思い出される。

また相手の個人差や異なった姿勢になった場合もその感覚は違ってくる。例えば相手の足が並行なのか、前後に開いているのかだけでもカギとなる足裏まで到達する感覚は異なっている。一端、気付いてしまえば皆同じなのだが、私の場合は多様な状況の中で共通する感覚を拾い上げる練功が毎回必要である。様々な状況でも共通の感覚が得られるように繊細に日々の練功を行っている。

しかし、一つ一つを自分のカラダから拾い上げる作業が今は楽しい。合気練功を武術の技のカギのようにとらえていた時は「こんな途方もない技術修練…。」と凹んでいたこともあるが、それは自分の武術に合気練功を入れ込もうとするから大変と感じたのだ。
「感覚を耕し土壌作りをするのが合気練功である。良い土づくりができれば後はそこに何を植えようが自由である。」と塾長は言う。合気練功は単なる技ではなくいろいろな事のベースとなるカラダ作りと捉えるのが正しいと思う。

花か?野菜か?どんな作物を育てようかと思案するのも楽しい事である。良い土づくりできればこの先の良い収穫は期待できるが、土づくりそのものが楽しいのである。ともに良い感覚(耕作)をつくる場面を楽しみながら、「ああ、あなたは合気道なのね、あなたは太極拳、空手、気功、拳法、介護、美容、整体、~、~、~、人との関係にも使えるね。」などと、先々にロマンを感じる会話も乙だと思う。

合気練功の「軸」と呼ばれるものについて

アメリカから遙々、練功塾に来られる方からメールでお題とともに内部感覚についての新しい視点をいただける。確認の意味もあって深く考えたことがない視点について改めて考えてみる。「もっと深い概念がそれぞれの分野・流儀にあるのだろう」ということを十分に承知で自分勝手に呟かせていただくことにする。

武道やスポーツではよく体軸について語られる事がある。
身体の運動で物理的に高効率な動きができる時に見出される、基準となる線のことと思っている。人間の体は歯車やベアリングではないので、その線を作るのは連動するマッスルベルトであるので本来はとても複雑な動きの基準線である。運動の方向性によってさまざまな軸が見て取れると思われるが、運動時の筋肉の協調性を表現する際に「軸」と総称しているのではないだろうか。
体幹の回旋では鼠蹊部または股関節を意識して動くことを教えてくれたのも、松原先生と呼ばれていたころの塾長だった(懐かしい)。私自身の背骨揺らしの自発動もよく確認してみると右足から左肩に抜ける動きがやりやすく、反対側は少し渋い。この偏差が筋の過緊張や疲労の偏りをもたらしているのであれば、操体法や整体でバランスを取ることは有意である。

静的な立ち姿については、骨格が無理なく頭部を支えている位置関係が「軸」と捉えられるのだろうと思っている。大後頭口の前縁が仙骨の上にくるぐらいで背骨がS字湾曲している感じだろうか。椎体が積み木のように約7㎏の頭部を支えていれば、筋肉が緊張し続ける必要はないが、日本人は頭部が前方に出て猫背や反り腰が多いらしい。7㎏の鉄アレイを持って「前ならえ!」筋肉はすぐにプルプルする。これを首や背や腰は長時間やっているのだと思うと部分的な凝りが生じるのも当然である。本来は存在しないものを意識して、運動を整えるあたりは合気練功と同じであるが、やはり難しいので「お尻をすぼめてお腹が凹むと仙骨が良い角度に立つ」なんて、とりあえずの整え方が様々な媒体で紹介されている。

さて合気練功の体軸についてだが、2元のゴム感覚で姿勢保持筋をはたらかせるとき、反り腰、前かがみ等、背骨が不揃いだと、カラダのゴム感覚が緩んだり抜けたりすると感じていた。よって背筋は真直ぐな軸を保ったまま、寄り掛かりにならないように体幹前面に重力がかかるというのが、不安定を内包しているカラダの状態と思っていた。しかし昨今、背骨を弓ならせる・湾曲させるなどの意念が登場してきた。背骨を繋ぐ筋の張力を用いるということで、外見上、弓なる必要はないのだが、真直ぐな背筋が必要とはなっていない。

合気のカラダがきちんとつながると、意識上で背骨を通じる線が四肢に分岐して指先まで到達していく。これが塾長のイメージで、「軸」という物理的な線はあまり意識されていないようだ。ただし、もしかしたら「そんなものは自動運転で結果的に整ってしまう。」と一蹴される事なのかもしれない。

合気のカラダ 背骨揺らしの自発動について

練功塾で塾生の前に立って背骨揺らしをリードする機会があった。自分の練功の過程で腑に落ちた瞬間のもろもろや各練功のつながりに気づいた部分をご案内できればと思い、皆さんの前に立った。

背骨揺らしは禅密気功の築基功に端を発し、蛹(縦)、擺(横)、捻、そして蠕動と進んでいく。動きに慣れてくると自分のカラダを内観する余裕が持てるようになる。外側の動きに捕らわれていると自分のカラダの欲している動きに気づけないが、指令する脳から感じる脳にチェンジして、動きの渋いところを動かしたい要求に素直に従えば背骨の運動に変化のチャンスが生まれる。
ある時、自分の練功で蛹動(縦揺れ)を行っているときに気づく事があった。人間の体は基本的に利き手・利き足による偏りがあり、完全なシンメトリーではない。よく感度を澄ませると脊柱起立筋に左右差があることを感じる。その左右差による凝りのような箇所を、油粘土を引き延ばすように動かしてやると縦揺れ運動に横揺れ運動(擺)の要素が加わる。その移行を徐々に動かしていくと縦揺れから横揺れ運動(擺動)になる。横揺れ運動(擺動)も繰り返すと捻じりの要素を背骨が欲するようになる。2次元の動きが3次元に移行していくのである。これが蠕動であるべきなのだと思った。

おそらく禅密気功では、いきなり自分のカラダが欲する(受動的な)、背骨を中心とした全身運動は無理があるので、階段として蛹(縦)、擺(横)、捻を設えたと考えられる。最終的にはそれらの区別が無くなり、極論は蠕動だけになる。それぞれの動きをリンクするキーワードは自分のカラダが欲する所(内部感覚)であろう。

練功塾の場面では咄嗟に言葉が出てこなかったが、後で塾長に確認すると自分のカラダが欲する動きを「自発動」と呼ぶそうだ。その自発動を感じられる能力が「推進力」を背骨が受容する感度になっていくと思う。昨今、練功塾では推進力を背骨の撓みに蓄えて、相手の重心を動かす事に使う練功が行われている。背骨の張りを作るのに背骨揺らしの感覚は重要であると思う。

追記:この日の練功塾からの帰り、塾長から「背骨揺らしを自発動につなげる指導は良かったね。今日一(きょういち)だったよ。(今日、一番良かったよ)」と褒められた。ほんと、久しぶりに褒めてもらえましたよ。

内部感覚について(その2)

手のひらで単線のゴム感覚が出たら1元。しだいにそのゴム感覚を全身に拡張していくわけだが、特に2元(複線)のゴム感覚は重要である。2元であるということは、意識的にはゴムがないと倒れる、不安定を内包している状態と理解している。腕のゴム感覚を維持しつつ体幹に繋がるゴム感覚が自動運転にならないと、腕で何かをする意識ですぐに全身性の合気のカラダ(不安定)ではなくなる。私に限らず、塾生の皆さんもそこが大きなハードルになっているようだ。

私の意識の拡張についてはこのような変遷を経た。
腕全体に意識を広げて低反発の円柱を抱いた腕の周りに竹林があって、細い竹のしなりの反発を外から受けているイメージ。ただしこのイメージは今では少々窮屈で、中心を感じるには良いが外への広がりを感じない。そこで次のように変化した。腕が毛ガニになったように感覚毛が生えて、あたかも棒磁石の磁力線のイメージで反発を感じ、感覚をさらに拡張すると背骨を中心とした磁力線のイメージを感じることができる。すでに方向性が失われているので2元というより4元のカラダに近いのかもしれないし、背骨を通過する流れのようなものを感じているので5元(内部感覚)なの?かもしれない。腕・肩に力みがある時は、誰かに腕を押されるといちいちその力の方向に対処する反応になるが、ゴム感覚で繋げることができると入力方向が変わってもカラダの弾力性で受けることができる。これをもってカラダの繋がりの可否を確認することができると思う。また磁力線イメージは気功を行っているときの感覚に類似もしている。

最近こんな変化もあった。細かい話だが、基本1・2系(下げる・上げる変化)でゴム感覚が肩で切れてしまう事が余りにも多かった。そこで自分としては星飛雄馬の養成ギプスのように、肘から肩甲骨を通って背骨につながるゴム(バネ)をイメージして繋がりの意識を強化していたのだが、どうも当たり外れがある。そんな時、ある院生さんが「合気上げの掛かった時は肩がすぼまる」と。そこで練功のイメージを胸骨から鎖骨、上腕骨へ意識して体幹の前面内側に持っていき、肩関節と背骨をことさら意識しないに変えてみたところ、私にとっては具合が良。「含胸抜背とはこれか!」と勝手に納得。(漢文をもっと勉強しとけば良かったよ(;´д`))。「でも、背骨に意識が繋がっていないぞ?」とまだまだ模索中。

内部感覚は自分の内部の感覚であるからして、どのようにイメージしてもOK。だれに迷惑がかかるわけではない。ただ合気練功ではそのイメージが自分にとって正解か不正解かは検証が必要。各自が各自のフロンティア(迷えるコヒツジ)であることが練功の醍醐味と思う。

内部感覚についてはまだまだ表現しきれない部分もある。呟くには余りにもボリューミー。よってTo Be Continuedで。

内部感覚について(その1)

しばらくは内部感覚について流してみたいと思う。
今ではどこが外部でどこからが内部感覚なのかわからなくなっている部分もあるが、合気練功で出会った感覚を挙げていくことにする。

スタートは手のひらの磁石の斥力、ゴムに似た引力であった。以前にも書いたが、正直に初めは何も感じず、周囲の雰囲気にのまれて「あるような…」などと返答していた。在ったものを感じられるようになったのか、無かったものが有るようになったのかはわからないが、今ははっきりと抵抗感を感じる。ゴム感覚で歩を進めて歩くこともできるようにもなった。他ごとをやっている時でも腕に少し意識を持っていくとゴム感を感じられる。ある種の自動運転状態。これは少々危険な状態でゴム感覚に集中しているが、往々にして他事に集中力が切れている状態。塾長やある院生さんは車の運転中にもハンドルに皮膚のゴム感覚を感じている様子。私も人の事を言えないが、事故った時の理由としては理解してもらえない。広義にはわき見運転でしょうかね(笑)。

最近、「呟き」をお読みになる方々とお目にかかることが多くなった。「毎週楽しみにしている」と口々に仰られるので、嬉しさとともにささやかなプレッシャーと戦慄などの内部感覚を感じる。呟きの取り組みで合気練功の要素を自分なりに整理整頓して理解することができるようになった。よってこの作業はまだまだ継続。ここのところ他事に時間を奪われることも多くなってきたので文量が減少する帰来を感じるが、集中力を切らずにサッサと終わらせて落稿ないように練功を続けていく。
…どっちの? 言うまでもないですよね。