2018年 2月 の投稿一覧

合気の原理 再び足裏感覚へ

このブログを始めた頃に「足裏感覚について」を記している。その時の感覚について振り返ってみると相手の足裏のどのあたりに重心が来ているか、前足底、踵辺り、足刀寄り…という程度の意識であった。
今は相手に加えた圧が足裏へ到達している経路に意識がある。相手と触れて柔らかく皮膚を取りながらジンワリと圧をかけると足裏まで到達する。しかしながら、圧が腕・肩(あるいは腰)のところで受け止められて、足まで十分に到達していないことがある。到達が不十分なまま何かをすると望ましい反応は生じず、腕だけ、または腰が折れてお辞儀の態勢に終わることが多い。原因は下方向への加圧に対して引き(皮膚の取り加減)が多すぎるためと分析している。足まで到達したときは明らかに跳ね返ってくる力が大きく感じ、推進力として十分な感じである。

基本3系では横方向、4系では後ろ方向に加圧するがこれも足裏へ到達するように操作する。その到達のさせ方はある種「裏の力」の使い方なのではあるが、まずは自分が「足まで到達している」と感じられる圧で腕、腰、足の違いを判るようにすることが速やかな上達につながると思った。当然相手には自覚されてしまうがそこは目をつぶる。これは技ではなく足裏感覚の練功であると割り切る。

さて、今の課題はというと相手の姿勢が変化しても相手の足裏を意識し続けられるかである(ン?昨年11月ごろと変わらず??(T—T))。皮膚操作で重心を引き出す意識を持つと下方向への意識が消える。相手の膝がちょっと折れると安心して足への圧を忘れる。
未熟者め! (「相手の足腰が辛いであろうから途中で止めてあげているのです」は言い訳!)
ヒョイと乗っても、横方向に相手を変化させても、5系で回旋させるときも、常に相手の足裏から推進力をもらい続けられるように、同調と4元のゴム感覚の維持である。

合気の原理は今のところ5つしかない。同じ項目なのだが1週目と2週目では視点や質感が違う。より多くのヒトを合気のカラダに仕立てるには精度を上げて、感覚の拡張をし続けねばならない。言うならば、自転車の補助輪が取れて無意識に乗れるようにはなった。次は手放し運転か、ウイリーか、ジャックナイフか。「練功はどれだけ練りこんだかである。」とよく塾長は言う。

追記:基本1系で相手を上方向へ上げる際、相手の足は方向が180度逆であるのでイメージがしにくい。相手に私の足裏に乗ってもらう(触ってもらう)感覚で操作している。

合気と、わらび餅、豆腐、スポンジ、表面張力、ニシキヘビ

表題の語群は何を意味しているものと思われるだろうか。

合気練功塾に興味を持たれる方のほとんどが何かしらの武道・格闘技を嗜んできておられ、その身体の反応はいろいろと長けておられる。僅かでも押す、引くなどの何かをしようとする意図は即座に対応されてしまう。意図せず入った引っかかりでさえもブロックされ、力の方向を外される原因となり、また逆に柔らかく脱力されてつながりを切られてしまう。またこんな事もある。女性(奥さん??)を相手にした場合、男性の腕力では力が加わった瞬間にフニャと腕が下がってしまう。ああ難しい。力を使えば力でぶつかって筋力が強い方が勝つ。そこには齢を重ねてなお冴える達人の世界はないと思う。

相手に反応されないためにはどうしたらよいか。それには力強さをともなわなければよい。相手の力よりもソフトに弱い力で相手に影響する事ができれば達成が可能。
言うは易し行うは難し。そのような力加減をするための留意はというと上記のキーワードである。相手と接触した手のひらのイメージである。「相手の手と自分の手のひらの間にわらび餅が挟まっているような感じ」というのは塾長がよく使っていた表現である。変形する感じが私にとってしっくりくるイメージであった。「豆腐をつぶさない程度で‥」もここのところ塾長がよく使う。

練功中に触れられた手のひらの皮膚が、張った状態でも何だか馴染みが甘く、皮膚操作の感じも悪いように思う。僅かの力みで指の骨が当たった瞬間に何か来るなと意識に上る。皮膚を取るのにわらび餅が弾性でもって元の形に戻れる程度の皮膚操作。「突っ張ってはダメで8割程度の取り加減」これも塾長の表現。「手のひらがスポンジでよ~、手の甲側の皮膚で触れている感じで‥。」これはある院生の言葉。(この院生さんは相手からの微細な反応を感じるためにお風呂で練功を工夫された。湯面に手のひらを乗せて、湯面の動きを感じながら手が沈まないように意識してみた。おかげでのぼせてしまったとか。)一時の私のイメージがニシキヘビ。ヘビをギュッと掴んだら反撃される。嫌がられないように敬意(警意?)を払いつつ、でもこちらのハンドリングの中。
練功塾・研究会のメンバーも自身の経験から様々な例えを繰り出して、何とかその感覚をつかもうとしている。そんな中から「ああそれか! ならば‥‥‥。」となるものが当たったらお互いに幸運である。「だよね!!」と暗黙の了解。

留意点がもう一つ。私の戒めでもあるのだが、いくらソフトタッチでもその圧で相手の足裏まで到達できていることが感じられなければ、その後の操作は無意味‥‥。

合気の原理 指さし確認のこと

合気の練功は重ねがさね「つなげること」である。つながってしまえば、上げるも下げるも崩すも自由という。そのために合気のカラダを練って、原理を理解して身体操作するわけである。このブログやオンライン講座のテロップをいじってきたので、さすがに理論はある程度理解できているつもりである。しかし、何かが欠けていて時折上手くつながれないことがある。より精度を高めるために塾長に指導を乞うた。備忘のためにも以下にまとめてみる。

1.「足裏感覚」で足を触ること。手から体幹を通じて足底から床に圧がかかっていて、その反作用が手に跳ね返ってきていることを感じて「足裏感覚」である。自分の圧を相手が腕で受けているのか全身で受けているのかは、この後のつながり具合に大きく影響する。

2.相手の足から跳ね返ってきている力(推進力)を使って、基本2系であれば自分が上前方へ、基本1系であれば下前方へ変化をしていく。注意しなくてはならないのが「相手からの圧を使って変化する」ことである。自分で勝手に動いていっては相手とつながらない。また、上がりきってもダメである。気持ちよく上がってしまうと推進力は自分の変化に使ってしまい相手の変化に使われない。つながりは切れてしまう。

3.2元のゴムで姿勢保持を際まで持って行く。自分のカラダに不安定さを作って相手に支えてもらう。腕や肩で引っ張らずに体幹部(背骨)で引くゴム感覚で十分に追い込んでおく。自分では頑張ってやっているつもりでも案外まだ余裕があって、自分が安定している。それだけ不安定になることが嫌なのだろう。本当に際まで追い込む感覚を重要視しなくてはならない。また、この時に重心がひょいと乗るのだと思う。自分にとっては乗るという表現はあまり適当でなくなってきた。乗せるには一度持ち上げなくてはならないが、持ち上げるイメージはつながりを弛めてしまうので不適切な感じなのだ。

4.もう一度自分のカラダをチェックする。特に肩でカラダが切れてしまっていることが多い。肩を確認してさらにカラダをつなげて、相手の刺激(動き)に反応できる敏感なカラダにしておく。
ここまでが私のチェックリスト。普段から2元の感覚で姿勢保持の際を認識していれば接触してからの操作は短くてすむ。色々な方向へ2元を強めていけば変化しても切れない4元の体はもっと良くなるだろう。

5.つながったことに自覚ができたら、意念を使って相手の重心を隅々から吸うように引く。意識するだけでどうやら微細な動きが生じて(皮膚が取れて)しまうようだ。難点は引くと思うだけで腕での引きが始まってしまい相手に気取られてしまうことだ。
変化した相手に同調してずっと推進力を感じ続ける事も重要である。相手に乗りかってしまうと結果的に両者が安定して相手には対応を可能にしてしまう。常にちょっと支えてもらう関係を維持する。

これらの項目を脳味噌の中で指さし確認を行って、一つももれなく自動運転できるように癖付けしていけば一段階精度を上げられるだろう。注意すべきは次の項目を行う時に前の要素が抜けてしまわないこと。確認後に意識が移るとできていたものが緩んでしまいがちだ。積み重なるような指さし確認を行いたい。

同調について

合気の原理Ⅲに「同調」がある。個人的にはなかなか難しいと感じている。「同調」には複数の意味があり、留意点であり操法であり、現象名でもある。

まずは自分のカラダの事として背骨を起点とした統一体であること。腕や足の動きが背骨や骨盤と同調していなくてはならない。背骨揺らしの蠕動が相対でもできれば良いのであるが、おそらく体幹部分(背骨)から引っ張るゴム感覚を伴うことでより効果的に同調できる。
相手との接触点の圧を同圧にするという意味での同調。体の部分に力みがあってはつながった合気のカラダであるとは言えない。その力んでいる部分をゆるめてつながりやすい合気のカラダにしてしまう操法である。自分が合気のカラダであるので相手も自分も合気のカラダということで同圧である。逆もあり、力ないタラタラの体を姿勢保持の筋に作用することで合気のカラダとしてつなげていく(裏の力ですね)のも同調である。

集中講座でこのような現象があった。つながる練習を2時間ほど行い、つながる感覚をほぼ得ていただいたところで、塾長がそれぞれの受講者を直接触れずにゴム感覚で引いたのである。すると受講者は引く動作に同調して前重心になっていった。この場面だけを動画にするといよいよオカルトの世界であるが、つながる感覚で影響を受けた体は、その予備対応を小脳が学習して無意識に姿勢保持の反応が生じてしまうと考える。つながりやすいカラダになっていると言える。練功塾や研究会でたまにみられる光景でもある。

しかし、練功塾や研究会で練功を繰り返したヒトのカラダがつながりやすく、反応が生じやすいのは繰り返した学習の結果であるから理解に無理は感じないのだが、上記のようにまだ数回、数時間の練習の方々にも容易に反応が生じてしまうのはなぜなのだろうか。ヒトにとっての姿勢保持がセンシブで影響を受けやすいという答えも有りだが、本当に学習の結果なのだろうか。

ふとこんな事を思いついた。まだ私の娘が小さかった頃、娘は私に寄りかかったり、もたれかかったりしたものだった(今では近寄ってくることすら無いが‥)。子供の頃は何かに触れている事が安心なのだろう。大人になるにつれて自立して、他人に寄りかかることも無くなる。でも本能的にはちょっと寄りかかっていた方が快の感覚なのではないか。新しく学習習得されるのではなくもともとの動きが復活しているとしたらどうだろう。

武術の技は反射などの生得的な反応を利用しているものが沢山ある。修飾されていない反応や動きの中に探求すべきものが埋もれているかもしれない。もっとちゃんと子供達の動きを観察しておけば良かったかもしれない。