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Tスタイル ~合気練功の日々~「今、ここ、自分」

 皆さんもご存知のように、メジャーリーガーの大谷翔平選手の快進撃が止まりません。
 WBC(ワールドベースボールクラシック)では、投打に活躍し、日本代表チームの優勝に貢献し、MLB(メジャーリーグ)でも、チームの中心選手として抜群の存在感を放っています。
 インタビューでは、「君はどこの星から来たのかい?」と聞かれていましたが・・・

 実は大谷選手の思考の仕方には、ある特徴があるのだそうです。
 ある時のインタビューで、大谷選手はこう言っています。
「一流のピッチャーになるんだとか、一流のバッターになるんだとか思っていたわけじゃない。いいバッティングをしたい、いいピッチングをしたい。いつもそれを望んできました。」
 また、ホームランについて聞かれると、
「ホームランを狙うということはなく、良い角度でボールに当てるというのが一番。」
 
まさに、「今、ここ、自分」に集中し、心に揺るぎがない状態をつくり出しています。心理学では、この状態を「フロー」と呼ぶそうです。

 練功の場面に当てはめてみると、
「相手の腕を上げるとか、下げるとかではなく、相手と一番良い状態でつながりたい。その為には自分と相手の身体の状態(内部感覚)をどうすれば良いのか。」
とでも言えばよいのでしょうか。

 また、大谷選手が愛読していた「運命を拓く」の著者である中村天風氏は、「心も身体も道具である。」とし、「力を入れることに重点を置かずに、力を働かすことに重点を置く。」と述べています。
 私は、この文章を読んだ時に、(持病の副鼻腔炎の手術を控え、心身ともにやや不安定だった)自分の心がすーっと晴れていくような爽快な気分になりました。

 なかなか練功が進まない時や、壁にぶつかった時、「今、ここ、自分」に集中できるよう、心と身体を研ぎ澄ましていきましょう!

今月の名言

数ある同僚の中から抜きん出て偉くなる人は、結局、偉くなるべき資格をもっているのです。その資格とは、「誰にも言われなくても、日々毎日、実際に努力している」ことなんです。
中村天風

人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。
中村天風

笑っている時、人間は最も強い。
中村天風

そう言えば、副長はいつもニコニコしていますね。やはり、最強(最恐?最凶?)合気職人ですね。
  
KENTA

 

虹をつかんだ男のココだけの話「無駄」

前回は、合気の「基礎」の無い人間が、動画を見たところで何も得るものは無いという話をさせてもらったのだが、今回は、私がそう思う理由について述べたいと思う。

合気の現象化を見た時に、「不思議だ」と感じるのは、自分が今現在持っている頭脳や能力では解明出来ない事に驚くからである。しかし、この事実に直面しても尚、自分の経験と知識やそのアレンジで対処出来るはずと思ってしまう“挑戦者”が、かなりの数で存在する。なぜ、そのような勘違いが起こるのか?といえば、掛けている人が、自分でもマネ出来る動きしかしていないからではないだろうか?

現象自体はとても不思議なのだが、掛けている人の動き自体は、取り立てて難しい様には見えないのだと思う。だから、自分が見える範囲の光景を手がかりに、見よう見まねで試行錯誤を重ねる事になるのだが、残念ながら、寸分違わず動きを完コピしたとしても、合気が発生する事はあり得ない。

なぜなら、映像に出ている現象や人の動きは全て“結果”だからである。その“結果”だけを真似しようとしているので、自分1人の動きだけでは、当然無理がある。その無理を通そうとすれば、相手の協力や同意の下で自作自演に付き合ってもらうか、タイミングやテクニックなど、姑息な手段でお茶を濁すしかない。どちらも本物ではないという事はわかるだろう。

そして、これらが全て“結果”であると理解したなら、その“原因”を見つければ良いのだが、これもまた、絶対に無理なのである。なぜなら、その“原因”は自分が生きてきた中で経験した事がないものだからである。存在自体を知らないから思い浮かばないのである。

人間が導き出せる答えは、自分の知識と経験に基づいているので、目の前で起こった事象を、自分が知っている常識の範疇に落とし込んで考える。だから、動画を見た時に、体の動かし方や動かす角度やタイミングなど、“普通”の発想しか浮かばない人は、その時点で、動画で合気を習得しようとするには経験値が足りないのだ。

合気の現象が起こる“原因”として“意念”や“内部感覚操作”といったものが使用されているのだが、普通の人生を送ってきただけでは、体験することも出来なければ、知る機会さえもない。だから、知らないのは当然で、見えなくてもしょうがないのだが、誰かのお金と時間の無駄になるといけないので、この機会にお話しておこうと思う。

日々是合気「合氣の階段」

初心の頃はゴムの感覚とか四元五元とかどうやったらできるかと試行錯誤した

方法を考えた
しかし方法論ではいかんともしがたい処がある

結局は存在していないものを
扱わなければならない

無いものを有るとして
体感としておとしこまなければ
ならない

イメージすれば良いのか?

正解でもあり不正解でもある

体感として自分のなかにあり
対峙する相手に反応があれば良い

彼我の別なく同調する
果ては宇宙と一つとなる

そんなオモイと実感が植芝翁や
佐川師にはあったのだろう

今その究極にいたるステップが
松原塾長により解明され誰でもが
その階段を昇ることができる

ぜひその階段を体感しに練功塾に参加してほしいと思います

ともに合氣の階段を登りましょう!

byたけぞう

Tスタイル ~合気練功の日々~「抜刀術」

 最近、抜刀術の達人の動画を見る機会がありました。
 以前、武術(体術)の師範から剣術も教えていただく機会があり、以前から興味を持っていたのですが・・・

 皆さんもご存じかと思いますが、真剣を上段に構えるのではなく、刀の柄(つか)に手が触れていない状態から、一瞬で刀を抜き、相手を切るのが抜刀術です。

 私が気になったのは、達人の「手(腕)で刀は抜いていない」という言葉です。
 合気練功塾の1系(合気揚げ)も手ではあげないと言われますよね。
 ならば、どこを使って刀を抜いているのでしょうか?
 もちろん全身を使っているのですが・・・

 あくまでも私見ですが・・・

 身体の内部感覚で抜いているのではないでしょうか。

 一瞬で命を失ってしまう恐怖に打ち克ち、身体を極限まで研ぎ澄ませ、抜刀する。意識を身体の内部の奥深く(中心)に沈ませ、それを一気に開放することで、心が身体を操作することができるのではないでしょうか。
 そして、抜刀する瞬間は、身体中が細いゴムで張り巡らされた(究極の)つながった身体になっているように思います。

 そうです。刀を抜く前に勝負は決まっているのです。
どちらが究極の身体になっているのか。言い換えれば心と身体が一つになっている方が勝者なのです。

 対人練功の場面に置き換えると、相手が触れようとする瞬間、相手に触れようとする瞬間に勝負がついているのです。

「おまえはもうつながっている!」
(ドヤ顔で)言ってみたいなあ~

今月の名言

我思う 故に我あり      デカルト
あるようでないようである!  塾長(ペイン松原ニャンコ大魔王)
けがれのない清らかな心で!  副長(麦酒大好最凶合気職人)
  
 KENTA

虹をつかんだ男のココだけの話「基礎」

合気の書籍や動画などがこれだけ溢れている世の中で、運悪くそれを見たばかりに志願者となり、そのまま為す術なく難民に移行してしまう。という、見るも無惨な現実がある。
この原因として、指導者の能力・資質・姿勢の問題があると前回述べさせてもらった。
訪れる者は、合気の“仕組み”を知りたくて、それを教えてもらいに来る。しかし、訪れた先は、教える気も能力もない。ここを訪れた者は不幸にも、「自分は、教えられたことも出来ない能力の低い人間だ。」と、しなくても良い後悔をして諦めざるをえない。
だから、指導者選びは、とても重要ですと。

そして、ついでに言いたい事が浮かんだので今回述べようと思う。それは、そもそも書籍や映像で合気を掴めないという事である。
合気が掴めるなどと謳っている高価な本やDVDをよく見かけるが、未経験者があれを見ても何一つ出来るようになる事はない。なぜなら、未経験者には合気の基礎が無いから。

私達が日本語を使えるのは、長年日本語の教育を受けて来たからである。幼少から知らず知らずのうちに、喋ったり、聞いたりして言葉を覚え、読み書きなどの基礎訓練を経て、数年の時間を費やして、やがて不自由なく操る事が出来るようになる。
一方、日本語の無い環境で育った人間が、比較的短期間で日本語を覚えようと思った場合は、日本人の子供のように、トライアンドエラーを繰り返せる時間も無ければ、いつでも間違いを指摘してくれるというような環境も無い。だから、最初に覚えるべきは、五十音の種類であり、そのルールである。それで日本語を作る事を覚え、その人の母国語と互換する事で習得していく。まず、平仮名を理解し、使いこなす事が一番初めにする事、基礎なのだ。

何でもそうであるが、基礎が無いとそれ以上の知識や技術は積み上げられない。基礎の無い人間に応用は何の役にも立たないのだ。
音符や音階を知らない人間が、教則本を手に入れたところで、ピアノは弾けないし、九九を知らない人に数学の参考書を与えても数式は解けない。そんな事は、誰でも知っている事で、下地のない人間が、ピアノや数学に興味を持ったとしても、いきなり教則本や参考書を手に取るというのは、まさに“狂気の沙汰”でしかない。
これらは、最初に結論ありきで作成された物なので、「夢が叶う」という結末が決まっているだけで、逆算して行っても、出発点は未経験者ではないのだ。言ってみれば(基礎を済ませた)人を選ぶ代物で、素人には無用の長物という事になる。
基礎の無い者にとってこの類いの映像は、自己投影したり、感情移入したりして楽しむ、アーティストのライブ映像や映画のような鑑賞用娯楽作品と何も変わらないのだ。だから見て楽しむ分には構わないが、習得したいのであれば、その前に他にやるべき事がある。

これらの理由で、合気系の書籍や映像に「誰でも出来る」とか「素人でも大丈夫」などのニュアンスがあるものは、詐欺とは言わないまでも、作成者には未経験者に対して「出来るようになって欲しい。」という意図が皆無な事だけは確かである。