神谷の雑記

快適空間のこと

快適空間のこと

松原先生がしきりに言う「快の感覚」。合気練功は武術にも治療施術にも応用が可能な新しい身体操法を得る養生を目指すもの。HPにも同様の理念が記されている。「※ 合気練功はどなたでも学べますが、仲間の上達を喜べない方は入会をご遠慮いただいています。」これも快適空間を目指すが故。

生物学の研究では細胞数が1000個ほどの線虫C.elegans がモデル生物として使われる。この生き物はその後の多細胞生物の体作りの基を持っているとして研究材料に盛んに利用されている。さて、この線虫が餌であるバクテリアを食べるとき、ドーパミン放出のメカニズムが活性化する。神経伝達物質であるドーパミンは我々の脳をつくるニューロンでも産生されており、運動制御、認知、意欲、快感など、幅広い脳機能を制御している。多細胞生物のかなり初期の段階で快感は獲得されており、食べること、飲むこと、交配すること、つまり生き残るのに本質的なことへとわたしたちを動機づけるために存在しているといえる。

合気の原理は不快感を与えるとどうも上手くいかない。ヒトは基本的にストレスに対して敏感で、練功の場面で例を挙げると「いきなり」、「無理やり」、「固まる」などであろうか。反対に「じんわりと」、「須(すべか)らく」、「流れ続ける」は上手くいくワードと言うことかと思う。相手にストレスと感じられない継続的な弱い刺激を与え続けることで、その人のカラダは必然的にその重心のある所に移動していく。ヒトはその場にカチッと留まっているよりなんとなく緩緩と動いている方が自然で苦痛がない。この辺りが生物として本質的な部分と通じるのであろう。基本五系をその人にとって心地よい快の姿勢とすることができれば上手くいかない不快感を感じずにいけるだろう。意識と練功は柔らかくなってくる。

練功で固まっていた筋がほぐれて心地よくなれば練功塾は快適な空間。施術するがごとく相手を合気のカラダにして差し上げる。無理だと思っていた達人の世界がもしかしたらみんな(・・・)で会得できるかも…と思えばなんとロマンのある空間だろう。理解しにくい現象を解析・解説して、「あー!なるほど!」と言って頂けるならば私にとって快の感覚。快適空間の追求が自分のレベルアップになるとここにきて実感している。

不意打ちは相手がいなくなる武術的には有効な術ですが、現代社会での不意打ちは人間関係に残るので上手(わからんように?)に体現する必要がありますね。

前肢のこと

直立二足歩行を行っているヒトは前肢が自由になっている。その進化の過程は諸説あり、面白いものでは水生類人猿説(人類は水中生活をしていて垂直の姿勢を獲得したというものだがマイナー)などというものがあるが、樹上生活の所作が準備段階にあったというものが有力である。(岡田(2014) サルからヒトへの進化―二足歩行の前段階Anthropol. Sci. (J-Ser.))

ヒトの前肢には危険な刺激から身を守るための反射が備わっている。例えば指先に鋭い刺激が加わると無意識に手指を引っ込める。脊髄から肘を曲げる屈筋に反応がいくので屈筋反射といわれる。拇指の付け根に圧が加わると前腕に力が入る現象や、赤子のモロー反射なども屈筋反射の一種。これらは樹上生活をしていたころの名残と捉えると合点がいく。基本五系の一系、二系で相手に手首を握られるとき相手の拇指の付け根に接触点を意識すると原理「裏の力」が通りやすい。少林寺拳法の小手抜で母指球を擦り合わせるように…なんていうのも頷ける。離せばいいのに離せないは落ちるからですかね。
私は練習で母指球を刺激されている時なんとなくテナガザルがイメージされてくる。テナガザルは長時間ぶら下がったままでも平気で、高速でブランキエーションをして枝から枝へ渡っていく。とても意識で握る瞬間をとらえているとは考えにくく、枝に触れた瞬間に無意識で反射的に握ってないと落下すると思われる。この様子とイメージがダブル。

手のひらはメンタル面とも密接で、緊張すると手に汗をかく。これも樹上生活で逃避するときの滑り止め効果と考えられる。冷たい手で触られるとキュッと筋肉が収縮する。合気の練功では筋の緊張があるということはここからの動きにぶつかりが生じる可能性があるわけで、無力化の妨げになる。薄味の練功では柔らかく触れてなるべく緊張感がない掌でアプローチしたい。皮膚を取るときに手の皮が突っ張っていると馴染みが悪いし、手指の骨が当たろうものならば相手に反応されてしまう(指がクイッはダメですよね)。塾長は「赤ちゃんに触れる時のように、そっと大事に。」とか「毛細血管が開いた赤い(温かい)合気の手で。」とおっしゃる。手のひらの皮のゆるみが「ゆるみ」の感覚に効果的かなと思っていたこともある。

私の経験では腕の力を入れずに推進力を理解できるようになると、ようやく接触点を忘れて相手の体内(筋の状態)を感じられる。自分に力みがあると自分も相手の内部も感じられない。ヒトは基本的に落ちる(倒れる)のを嫌う生き物であるようなのでゴムの感覚で入力すると重心にまつわる反射が引き起こせる。赤子に反射を起させないぐらいに柔らかく滑らかな前肢で練功を楽しみたい。

追記:合気のカラダの四元をやっている時は水生類人猿になっているかもしれない。

合気練功研究会のこと

毎週木曜日の夜に練功研究会は行われる。師走の平日の晩というのに参加者は熱い。

研究生は練功場所に着き次第、背骨揺らしから合気のカラダ一元と二元は自分たちで行って準備していく。中には段階の区別無く外部と内部の感覚を入れ替わり味わっている方もいる。

 

練功されている方はお分かりと思うが、基本五系で上手くいく・いかないには、自分の合気のカラダの要素と相手側の要素:相手によって合気の原理を整える幅のようなものがある。少しの刺激で反応が出るヒトから、ある程度の操作を行うことでつながる方もいる。上手につながれても動き出すときに僅かでも生の力が入ると気取られてしまうセンサーの鋭い方もいる。

研究会はある程度の感覚を持っているメンバーばかりなので、少しでも雑な操作をすると許してもらえない。逆に言えば研究会で通用する操作の感覚は、方向性として正しいと自信が持てるわけである。塾長自身も示演の中で順番に研究生に技をかけていってその自信を深めていっている節がある。研究生もそれこそ色々な握り方をするので個々の状況に合わせた調節が必要になっているようだ。大きな声で言えないが観ていて「ん!? 今のは失敗したのでは?」と思うこともある。そんなときは空かさず取り直して見せるところが経験値の差であろう。(「上手くできちゃったんだよね~。」なんて爆弾発言wもあったような‥。)

 

練習の内容はあらかじめこれをしようと決まっているわけではなく、研究生の練功状況を鑑みて塾長が決めている。ここ最近は合気の原理「ゆるみ」の練習を行うことが多い。原理Ⅴ「ゆるみ」は原理Ⅰ~がほぼ自動運転になった状態で内部感覚をゆるめて相手を弛めてしまうものである。感覚的な領域の練習なので研究生でも理解が及ばずに迷宮入りする場面も多い。塾長の示演をジッと見て外側から観てとれるヒントを探している。質問があれば随時発して、塾長はそれに答えて少しでも感覚がとれるように言葉を尽くしてくれる。10人ほどの大人(しかもほとんどの方が武道の有段者)が互いに感覚を伝えあって、雰囲気は穏やかであるが真剣に自分のカラダと感覚を見つめ直している(研究している)。とても幸せな空間が研究会である。

 

実を言うと私の場合、研究会のその場で感覚をつかめたという事はない。練習を終えて、何かモヤモヤしたモノを抱えたままとぼとぼと歩いて帰る途中(とても不幸せそうな表現だ)でいくつかのヒントが頭に降りてくる。その思いつきを次回の練習で試してみて振れ幅を狭めていくような練習を積んでいる。結果、そこに費やしたエネルギー分は自分自身に変化が生じたという感じである。

 

追記:塾長と「自分のカラダと感覚を見つめ直す幸せな空間」をもっと色々な場所と用途で作れないかと話している。2018年には新展開が期待できそうです。

意識の持ち方について

意識の持ち方について

先日、元高校生バックパッカーの吉野裕斗氏(君?)の講演を聴く機会があった。吉野君は名大付属高等学校在学中に一念発起して世界を見に行った若者である。彼のTwitterにある自己紹介は以下
吉野裕斗:ビラスタートCEO (@yutoworld2015). 元高校生 世界一周バックパッカー◇ 名大附属→慶應SFC◇株式会社ビラスタート代表取締役◇ 高校休学して世界一周しました!(2015年5月24日〜2016年2月12日)◇講演登壇 100回突破◇旅革命研修◇TEDx登壇◇家庭科の教科書掲載◇ソフトバンクアカデミア 8期◇. ホームレスなう.

若くて行動力のある人物で、その意識は外へ外へ向いてやる気に充ちていた。講演会に集まった聴衆の多くは大学生であったのだが、彼は冒頭に
「君たちね。旅に出ても、留学しても、何カ国回っても‥何も変わらないよ!」
「経験したことで自分を変える意識を持たないと何にも変わらない。」
と始めたところが印象的であった。

オンライン講座を受講されている方の多くは実際にその感覚を体験することなく映像からエッセンスを抽出されている。その熱意が現れたご自身の「合気練功の学習計画」を塾長のもとに送信された方もおられた。(合気の原理の手順と題して、つながる→皮膚操作→馴染む→ 待つ! とありました。感心しました。)
集中講座に来られる方々や東京、大阪から来られる方々の行動力も本当に凄いものがある。長年「合気難民」を彷徨って、やっと、たまたまHPや動画を見て何かあると敏感に感じ取って、何かを拾いに来られている。改めてその熱意・集中力・意識の高さに頭が下がる。

ヒトの意識は難儀なもので、感動は回数が増えるにつれて同じ感動に対する閾値は上がっていく。その貴重さが感じられなくなって行くのである。「名古屋で毎回練習できて良いですね。」と言われることもあるが意識の面では善し悪しかもしれない。練功塾や研究会に毎週参加しても意識が薄ければ自分の変化が乏しい(合気の原理の進化にタイムリーに触れていられるのはメリットだが、消化不良と隣り合わせだ)。きちんと毎回の「問」を持って参加しなくては!と初心に返るとともに、私の文章が 読まれる方々の気圧に負けてしまうようではいかんなと思ったしだい。                                  12112017

追記:最近、「熱気を持った方々のために地方で復習を主とした練習会を行ってはどうだろう。」と松原塾長と話をしている。合気練功の技術は理論を知っただけでは用を成さず、合気の感覚を磨いて蓄積していくことで成立していく。互いの意識と感覚を鈍らせないためにもそんな機会を作れないだろうか。

シンメトリーについて

シンメトリーについて

合気練功塾にはいわゆる「型」はないのだが、練習するときは、上、下、横と方向を決めて基本五系でそれぞれの方向の感覚をつかんでいく。このとき両手の時と片手の時がある。さらに相手が諸手(両手でつかむ)というのもある。私としては両手で行う方が、カラダがつながりやすくて上手くできる。
片手では基本二系(下方向)が力みやすく苦手である。片腕で何とかしなければと無意識に思うから(矛盾した表現だ…)だろうか、上腕三頭筋から肩甲下筋にかけて力んでいる部分が出現してしまう。普段の雑な動きで、肩帯まではつながるのだがそこから下がつながっていない。従って相手の力をもらって全身が上にあがってくことができない(上がっている時は、自分でつま先立ちになっているだけの、トホホ(;´д`)な状態である)。

自分自身や誰かが練習しているところを分析してみた。片手で上手くいかない時は、
・つかまれている手だけに意識がいっている。反対側の腕がダランとしてつながっていないことが多い。→ 術者のカラダの問題
・相手の足への圧よりも腕や重心移動の引きの要素が多すぎる。膝が曲がる方向にベクトルを作り出せていない。→ 足裏感覚がない。推進力の方向が間違っている。
・相手が動き出したとたんに、カラダを預けることが腕の力の抑えに代わっている。
→ 相手の変化に対する同調ができていない。

やはり両腕が身体とつながった合気のカラダであれば「一部だけ力む」状況は生じにくいように思う。逆の発想で力んでいるところと同圧で全身をつなげるという方法もあるかもしれない。力がぶつかっても先ずは体をつなげて相手に委ね、足裏の重心を感じることに専念である。

NTT基礎研究所の五味氏によると、スポーツ選手のしなやかな運動は脳が逐一筋肉に指令を出すことで可能になるのだという。合気練功は不随意筋を意念で動かす特殊な訓練を要するものである。運動前野から骨格筋に指令が出るときには、左右両方に逐一指令が出ているのであろう。それをどちらか一方の動きのみで表現するのは非効率な事かもしれないと思った。

さて、相手が諸手のとき私は最もつながりやすい。両方の手でガッチリつかまれる訳なので普通は片手では不利と思うが、ここも転換で「両手で力強く」とは相手の体がつながっている状態でわざわざ相手の身体をつなげていく手間が省けているのである。重心操作が多少雑でも、自分のカラダのつながりが切れないことに注力すればOKということだ。

追記:上記の五味氏の研究グループは振動を与えて、引っ張られた(牽引された)感覚を錯覚させる装置を開発しているそうだ。何もないのにゴムの感覚が生じる現象に関連しそうだ。
11262017