日々是合気

日々是合気「合気は物理か数学か?」

合気を紐解くには、数学的考え方は役に立つ。

原理1に2を足し3を足し4,5も足して合気の完成。

 

場合によっては、掛け算的結果もでる。

ベクトルや関数曲線も必要だ。

 

圧力、磁力やらも考えると確かに物理だ。

 

力みや、余分な動きはマイナス要素だ。掛け算ならばマイナスとマイナスを掛けるとプラスに転じるが、合気では残念ながら…ただ台無しになる。

 

合気を味わうことは出来ない。

 

! そう、雑味があっては合気を味わう事ができない

 

澄んだスープを丹念に造り、みずから味わい、また相手にも堪能していただく。

 

自らを合気の体に下ごしらえをし、相手を溶けこまし彼我の境なく渾然一体の合気のスープを作る。

 

数学でも物理でもなく、合気は家庭科で学ぶもののようでした。     

 

むかしから、敵を倒すことを「料理してやる」なんていうしね。

 

 

                                 ?!byたけぞう

 

日々是合気「合気獲得のための発想の転換」

今回、極端な話なのでスルーしていただくか読んでもすぐに忘れて下さい。

 
合気を相手に掛けるには!先ず己に合気が入った状態になっていなければなりません。あたかも、相手に合気を掛けられたの如く。
 
このことは塾生の皆さんは、何度も塾長より聞いて知っておられると思います。
 
塾長は日々、合気を指導され合気モードになりっぱなしで素のモードには戻ることがないようです。
 
私たちも、そのような環境であれば合気の体得も早いであろうと思いますがそうはいきませんね。
 
そこで常々、塾長の言われる発想の転換です!
 
合気を「掛ける」のではなく「掛けられる」。「能動的」にするのではなく「受動的」であろうとすれば良いのです。
 
それを日々の生活の中で、意識の訓練として積極的かつ絶対的に行なっていくのです。
 
こちらから、何かをするのではなく相手にさせる。
それをこちらは、いったん受けきるわけですから「我を無くす」禅の修行のようなものをイメージしてください。
 
ご飯を食べる時、自分が食べているというのではなく、ご飯に食べさせられている。
 
お肉や魚が、自ら私の口に体に入ってきてくれている。
 
自分が食事をしているのではなく、料理に食べささせられている。
 
自分が、テレビを見ているのではなくみせられている。
 
自分が本を読んでいるのではなく、本に読まされている。
 
クルマに運転させられている。
 
呼吸もそうだし、カバンを持つのもカバンに持たされている。
 
等など。
このように全てを徹底的に捉え直してみる。全てを受け入れるという意識の作りかたをしていくと、合気もつかめるような気がします。
 
こんなことを書くと「では、あなたは全てを受け入れるんだから、素直な僕に殴られてくれますか?」と言う人が出てくるかも知れませんね。
 
そんな時は、当然相手にパンチを避けさせられて、こちらのパンチを相手にあてさせられた…と言うことになるのでご注意下さい。
 
あー、危険な話なので今回の話しは全て忘れて練功に励んでください。よろしく。
 
          byたけぞう

日々是合気「松原自転車 合気号」

三輪車なら誰でも乗れる。

ひたすら力で漕ぐことが出来る。不思議さは全くない。

 

松原自転車の合気号は、ちょっと不思議だ。いや、とんでもなく不思議なのだ。

三輪車を必死で漕ぐような力感では進まない。動きもしないのだ。

 

塾長の愛車は10段変速の特注一点物だ。

 

世の中には自転車に乗れる人と、乗れない人がいる。

乗れる人は、早い者は数時間、長くかかる者でもひと月も練習することなく自転車に乗れるようになる。

 

その違いは何なのか?

指導者の言葉に素直か否かの違いかもしれない。

どうすれば良いか?と理屈で考えるか、素直な感覚で捉えるかの差かも。

 

自転車の乗り方をマニュアル本にしたらとてつもなく分厚い本になるだろう。それを覚えないととなると最早、自転車に乗るのは…

 

結局、自転車に乗れる人は

感覚で掴んだ人なんだよね。多分。

 

松原自転車 合気号もそんな感じかな。

 

実際の自転車の乗り始めは、多くは補助輪付の子供用からスタートしてるよね。

合気もはじめは、補助輪付、力感ありでも先ずは合気の感覚を味わい、身につける練習。

 

次に補助輪外して、自由に走ります。でもまだ子供用。

子供用とはいえ、これは結構不思議な乗り物です。

 

やがて、合気の体が成長して大人用の合気号に乗れるようになります。とても不思議な良い乗り心地。三輪車を漕ぐような力感ではとても乗りこなせません。

 

いつかは塾長の乗る10段変速合気号に乗りたいな。でもそんな頃には塾長は20段変速車、はたまた電動アシスト合気号で、とても追いつけないんだろうな。

 

          byたけぞう

 

日々是合気「合気と達磨」

近頃、松原塾長によく指摘されることに「腕を無くしてください」がある。

相手に手首を掴まれた時、足裏を感じさせるようにとは以前より教えられているところだが。

 

「相手に腕を感じさせないように」「肩、腕の意識が強すぎる。それを無くすように」もう、腕の力みを取るとか、腕を動かさないようにとかの話では無い。

 

腕を無くす…胴体の中の動きだけで己と相手の足をつなげていく。ん〜腕が無い、胴体だけ、ん〜

「あっ、ダルマだ!!」

 

達磨さんなら触れたら即、足につながるよね。あれ?ダルマは手も足も無かったか?

ま、ダルマの底が足裏ってことでダルマの張子は一つの合気のモデルになりそうだ。

 

起き上がり小法師は、倒そうとしてももとに戻るところは合気のカラダのヒントになる気もする。

 

達磨大師は壁に向かって九年の修行で手足を失ったという伝説があるが、我々は何年の修行で合気に到達するだろうか?

 

        by タケゾウ

 

日々是合気「もしもピアノが弾けたなら~西田某じゃないけれど~」

常々、松原塾長より「力は不要です。力では無い合気の世界に入って下さい」と言うことを教示されてはいるのだが、未だ力の領域をウロウロと彷徨っている。

 

リキミを取り脱力状態で、意念を動かしているつもりでも実際は腕が動き、肩が動いている。

止まっていたとしても、それは固まっていてゴムのしなやかさは無い。自分が上手く出来たつもりでも微かな動きがある。

 

本来は、純粋に合気のカラダでもって相手と合気の状態、気のハーモニーを奏でなければ。

ただただ内部感覚でのシンクロ、あたかも透き通った透明な楽曲を奏でるべきところに雑音が入り台無しにしてしまっている。

 

もはや、皮膚の操作すらノイズなのだ。まして力むなどピアノを習ったこともないものが鍵盤を叩きつけているようなものだ。

 

ふと、もしもピアノが弾けたなら、合気のコツも早く掴めたのかな?などと妄想しながら合気のカラダを練る自分である。

 

        by タケゾウ