虹をつかんだ男のココだけの話

虹をつかんだ男のココだけの話「弾力」

合気が不思議に見えるのは、掛ける人がほとんど動いていないからだと思う。しかし、本当に動いていないのならば、相手は動くことはないはずである。相手に変化が起きているのであれば、何かしらの動力が働いているということになる。

 

それが何かといえば、前回も書いた「弾力」である。ということは、普通に立っている時点で、自分の身体に「弾力」が無ければ相手に影響を与える事は出来ないことになる。

実際、合気が出来る人は、ただ突っ立っている様に見えても、「弾力」で充満しているので押せば押した分戻ってくるし、引っ張れば引っ張った分戻される。

合気を獲得するためにはこの「弾力」でパンパンに張った身体が必要不可欠なのだ。
作り方は自分でゴム感覚を作り出し、その感覚で身体の内部を伸ばすだけである。縦、横、斜めとゴムの本数を増やしていくことで、内側が圧縮された空気で満たされた様な身体が出来上がる。

そして、立っていれば足裏が、座っていれば脛が、地面とくっ付いているため、固定されたゴム毬の様になり、外部から受けた力は、身体のどこを押されも地面に打ち当たり戻って来ることになり、身体のどこを引かれても、最終的には、地面に引き戻されることになる。

例えば、地面に固定されたバランスボールの上に飛び乗れば、一旦は沈むが次の瞬間には跳ね上げられるし、そのボールを、引っ張り続けても、最終的には地面に引き戻される。実際には、何も不思議ではなく、当たり前の事しか起こっていない。

人が何もない状態で相手を翻弄している様に見える合気の実体とは、「弾力」のある人が相手と地面の間に入り、上手に喧嘩させているのだ。当然、相手が出す力はことごとく、出した本人に返ってくるため、勝つ事は万が一にも無いことになる。

by 宮崎

虹をつかんだ男のココだけの話「ゴム感覚」

合気習得の上でまず取り組むべき課題がゴム感覚である。

この感覚が無いと何も始まらない。しかし、普通の人は、その感覚を持っていないので、作り出す必要がある。その人にとっては、元々無い物なので、「有る」と思い込むことから始まる。

まずは、両手を合わせ、指と指の間で作り出すのだが、元々無い物なので、指をくっ付けたり、離したりしても全くなにも感じられないと思う。そして、時々、その行動を客観的に見ている別の自分が現れて、「こいつ大丈夫か?」と思うこともあるだろう。

しかし、その思いを振り切ってこそ道が開ける。「有る」と信じてやっていると脳が変性意識に入り、この感覚が現れ出す。薄い感覚を感じたら、自分の経験を総動員して、濃厚な感覚に作り変える。嘘から始まり、嘘を膨らませ、嘘を信じ込めば嘘が本物になる。

自分で自分をだませれば、指や手の平にゴム感覚を作る事は、そんなに難しい事ではない。それを他の場所でも感じられるようにする。

この感覚が大事なのは、合気で相手を動かす力になるから。

人は、押したり、引いたりする筋力に対しては、数多ある経験から、その行為に対して、自分なりの対処法を持っている。自分より力が弱い者には上回る力で対処したり、力が強い者には、張り合わずに回避したりとパターン化した対応をする。だから、筋力を源泉とする行動は相手に読まれていて使えない。

そこで、源泉として、使えるのは、ゴム感覚である、弾力。

自分の足から相手の足までゴムを張り、そのゴムを引いて戻る弾力を使い、各々の足にある重心を2人で一つの重心へと作り変える。次にその重心にもゴムを付け、それを引っ張ることで弾力が発生する様にする。その弾力の効いたゴムを自分の足裏を剥がす事に使えば、自分が動かされることになるし、相手の足裏を剥がすことに使えれば、相手を動かすことが出来る。

体の内部を通し重心が弾力で引き寄せられるため、相手は根こそぎ持って行かれ、抗うことが出来ない。そして、重心を取られた状態で、その場で踏ん張ろうと握っている手に頼れば、それが推進力として働き、自分に頼りきった状態でくっ付いてくる事になる。

ところで、とても不思議なのだが、イメージ上のゴムも引っ張れば、必ず勝手に戻る。現実世界のゴムと同様に扱う事が出来る。自分のイメージも現実に介入出来るのだ。

まずは、ゴム感覚の標準装備を目指したい!

虹をつかんだ男のココだけの話「不安定」

『お互いが個としては「不安定」でありながら、2人でバランスを取りながら「安定」している状態をつくる。』
これも合気を学ぶ上ですごく大切な情報でありながら、合気練功塾に来るまで、他では教えられることが無かったことである。

2人で一つの重心を作り、その重心を取り続ける事で相手の身体をコントロールする事が出来る。
何故この様なことになるかは、お互いがお互いを支え合っているから。2人共相手がいないと立っていられない状態になっている。

だから片方が手を離そうと上に上げても、わざわざもう片方が追ってきて、不自由そうな体勢になってもくっ付いて離れないという不思議な現象が起こったりする。「いやいや、手を放せば良いだろう。」と思うのだが、放したくても放せないのである。無理矢理放せば、自分が倒れてしまうから。

人間は二足歩行であるが、2点で立っているわけではない。実際のところ、足は右と左、前と後の4点で四角形の面を作り、その範囲に重心を置く事でバランスを保っている。だから、それが2点の線や、1点の点になった時は、遅かれ早かれ、その上から重心が外れ転倒することになる。そうならない為、2点になった時は、本能的に何かに掴まり面を保とうとする。

その性質を利用して、元々相手が一人で自立していた状態に、知らず知らずのうちに自分の2点を貸し出す形で2人でバランスを取らざる得なくさせる。

それを意図的に作り出そうとする時、お互いが相手の存在を必要とする共依存関係になる必要がある。普通の状況で4点で「安定」している他人の前で、自ら進んで「不安定」な2点になってくれる人など存在しない。相手が乗ってくる条件として、自分の「不安定」は絶対条件である。
そして、その条件下で相手の本能が、「自分が助けなければヤバい、2人とも共倒れしてしまう。」と誤判断し、力を出す状況に至った時、お互いに支え合い、引っ張り合う事になる。それを知識のない人が側から見ていると「何でくっ付いているのだろう。不思議だ。」となるのだ。

しかし、「不安定」になるのはとても難しい。独りよがりで「不安定」になって、転倒しそうになっても自分の「安定」を捨ててまで、相手が助けてくれることは無い。そして、自分が4点で「安定」して相手を「不安定」にしようとすると、引っ張っているとか、押しているという風に受け取られるため、ぶつかるか、すかされるかで力が伝わる事は無い。

そこで、合気練功塾の教えでは、〈裏の力〉で相手に侵入し、踵をあげさせ前重心にして、自分も踵を上げた状態で前重心になって下から支える。あたかも杖の様な形になって、重心を重なり合っている手の部分に移動し、共有の重心を作り「個」としての「不安定」を作る。

そして、2人の足から足までを繋いでいるゴムを目一杯引く事で、相手に「足で踏ん張り、手で押さえていなければ自分の身体が持っていかれてしまう。」と思わせる事が出来れば、その力で相手が勝手に動いてくれる。

虹をつかんだ男のココだけの話「思い違い」

合気を掛ける時に「接触点を動かさない」という前提の様なものがあるのだが、素人が動画を見た場合、結果的に接触点が1番大きく動いている様に見える。以前の私は、この矛盾に翻弄され、長年の間路頭に迷っていた。物理的世界観が染み付いているので、動かしたい場所をどう相手にバレない様に動かそうかとか、違う行動を思い浮かべながら動いて相手のセンサーを掻い潜れないかとか、今となれば頭がおかしいとしか思えない発想の中に答えを探していた様に思う。

 

そんなある日出会ったのが合気練功塾だった。それ以前に3つか4つのセミナーで煮湯を飲まされていて、「やはり、自分には合気を習得する資格が無いのではないか?」とも思っていた。

 

しかし、最初に松原塾長に個人レッスンを受けた時、凄い衝撃を受けた。「今まで何をやっていたんだ。」と。正直知らない事だらけだった。本や動画、セミナーなどで断片的に習った「皮膚をとる」などの触れ方は、テクニックに過ぎず、本質は「相手と繋がる」事なのだと。そして、相手の足から自分の足までゴム感覚で繋がり、2人で1つの重心を共有し、最終的に重心を取った方が相手に影響を及ぼせるのだと。

 

そして、合気練功塾の原理1「足裏」なのだが、どの動画を見ようがどの書籍を読もうが、私は、「足裏」をテーマにしたものを見た事がない。他のセミナーでも一言も聞いた事がない。だから、目から鱗が落ちる思いがした。それで、やっと前提の謎が解けたのだ。

 

合気上げを例に説明すると、手に触れて「裏の力」で掛け手の足から受け手の足までゴムを張る。次に「推進力」を感じさせ受け手の足裏を上げさせる。足下を掬われた受け手は支えられている掛け手の腕に頼るしかなくなる。しかし、あらかじめゴムを引いている掛け手の腕は固定されているわけではなく、引っ張られても、押されても、自分の胸の前に巻き込んで戻ってくる様な設定になっている。だから受け手が掛け手の腕に頼ろうと押せば押すほどその力が地面に当たり返ってきて、受け手は自分自身の重心を不安定にさせて、最終的に掛け手の腕に乗り上げる様な形で止まる。なぜなら、そこで2人で共有している重心が安定するから。外からは見えにくいのだが、受け手は掛け手と同化した地面を押して、その力が戻って来て受け手自身を上げている。しかし、この世界を知らない人の目は、接触点を起点に動いている様に錯覚してしまうのだ。

 

塾長に師事し、本物の合気を知り、伝授への本気さを感じ、感謝する一方で、それ以前に費やしてきた労力を思うにつけ、合気の世界の排他的な深い闇を感じざるを得ない。この業界は、本気で教える人がいない。業界全体で既得権益を守ろうとしているのだ。興味を引くだけ引いて、可能性を教えるのではなく、無力さや諦めを教えようしている。だからどこへ行こうが、何を見ようが、出来ない。そして諦めの悪い人は、この互助組合的な仕組みの中で、あっちへ行ってはサギられ、こっちへ行ってカモられの無限ループにハマってしまう。

 

動画を見ても接触点を動かしている様に見えてしまう人、自分の行動を読まれない様に意識を飛ばそうと奮闘している人、「足裏」感覚を知らない人、合気に「足裏」感覚が重要だと思いもしなかった人、思い違いをしているのかもしれません。一度合気練功塾に足をお運びください。

 

by 宮崎

 

虹をつかんだ男のココだけの話「成長曲線」

合気上げの動画を見ていると、様々なやり方に出会す。まともなものから、眉唾な物、箸にも棒 にもかからない物まで多種多様である。

最初の頃は、どれが本物でどれが偽物か分からなかったのだが、見続ける内に自分の中に基準が 出来てきた。 それは、「掛けてる本人よりも大きく、筋力ではとても敵わない相手に対しても、意念で軽々と 上げる事が出来る。」と。

どうやら本当に不思議で凄いものらしいと。 そのような技を身に付けたいと動画を吟味していた中で、やたら怪力そうな外国人を選抜してき て、腕力で上げる事を数度試みるも失敗し、意識を切り替えた途端、不思議な力を発動させ上げる事に成功するという動画が目に止まった。

そして、その人が言うには、この不思議な力は、 たった3か月で身につくという。

その動画を見た私は、居ても立っても居られなくなり、大枚を 叩いて大阪の講座に参加した。結果は推して知るべしだが・・・ 月日は流れ合気練功塾に来て、私が良いと判断していた合気上げの基準には、大きな間違いがある事が判明した。

それは、“強い力を出している人にも掛かる合気!”というストロングポイントは、実際は、“強い力を出している人にしか掛からない合気?”という致命的なウィークポイントであったという事。

この講座は、参加して1年で大阪を撤退し行かなくなったのだが、合気練功塾で本物の合気に触れ ている今となれば手を切れて本当に良かった思う。この人は講座で、合気上げや他の技を掛ける とき、あまり力を出さずに握ってきた相手に対した時、「もっとグッと来て」とか「それしか力 出ないの?」などと力強く握る事を強要していた。

また、その後、他のセミナーにも参加したのだが、このような指導者は多数いて、東京のある道場では、「自分の合気をお前たちにインストールしてやる。」と値打ちをこいていたのは良い が、私の様に何も考えず強く握りに行く人間に対しては面白い様に掛かるのだが、掛けられるのを怖がって強く握ってこない相手には、全く掛からない。

最終的には、その人達に掛けるのは諦 めてスルーしていた。そして、終了後、言い訳する様に顔の前で、手でピラミッドの様な三角を作 り、「合気を掛けてもらいたいなら、こういう風に相手ともたれ合わないとダメだから!」と不満気に言っていた。

この様な指導者から合気?をインストールされる事もなく本当に良かった。 (因みにこの人は現在“癌が治る方法“を見つけたと言い張り、新しい顧客を募っている。やることに節操がなく、ロクな死に方しないと思う。)

練功塾で本物に触れて分かったのが、弱い力の相手に合気を掛ける方がより繊細さを要するという事。

何故なら、受け手が出している力より更に弱い圧で触れなければならないし、相手が動か ないなら、裏の力で動くように刺激を入れなければならない。

力を出してくれる相手に掛ける時は、掛け手の出せる筋力の大きさの幅が広がるので精度が低くても、掛かる確率が上がる。当然 男性に掛けるより女性に掛ける方が断然難しいのだ。

私も練功の甲斐あって、半年程前から急に、身近にいる合気の経験の無い人にも掛かる様になっ てきた。もちろん男も女も変わりなく。当然、強く握ってもらうというインチキ無しで。

物事を習得する時に人は成長曲線というシグモイドカーブ(S字曲線)を描きながら上がるとい う。

頭の中では右肩上がりの直線を描いているのだが、理想通りの直線で成長できる事はまずな い。最初は努力しても頭の中のイメージを超えれない低迷期を経験する。

そして絶え間ない努力が 実った時に覚醒し、頭の中イメージを超えて理想にたどり着く。 合気練功塾にくる前のドン底を経験したのが良かったのか、来てからはあっと言う間にS字の上の部分のカーブに来れた。ますますやる気が湧いている今日この頃である。

by 宮崎