合気の原理

神谷の呟き064  合気の原理は慣性の法則にあり?!

塾長の説明でよく出るフレーズ
「相手が力を入れて頑張っていても関係なく、相手に反応が出る程度の接触で十分。」
この反応とは何かを考えてみる。

我々の姿勢保持は無意識で自律的である。誰かに押される、ぶつかられるといったことがあっても大人は倒れない。ましてや格闘技をしようなどと思う人は特にバランスが良い。バランスをとる機能が成長しきってない子供、足腰の機能に瑕疵がある、衰えてきているなどは別とする。ヒトの構造は重たい頭部が高いところにあるため、とにかく倒れないようにする仕組みがしっかりしている。それ故、ちょっとやそっとの外圧に対していちいち感じていないのが普通である。
山手線の混雑で確認してみる。よほどゆったりと立っている人でも、ジわっとある程度まで追い込むと、倒れないように何処かの筋肉に力が入る。これが足まで繋がったということかと思う。特段意識されている感はないから、接触点から力の入った場所まで「裏の力」が及んだという表現でいいのだろうか。自分の感覚でも確認してみる。カバン越しでも圧を足に受けることができるため、物を通じて繋がることは可能ということだ。

新幹線こだま号の発車、停止の回数は「のぞみ号」より多い。後ろの方に「ちょっとシートを倒していいですか?」と断って、シートにゆったりと座る。名古屋から3つめの停車ぐらいの時に気付いた。ゆったりと座っていても発車時の動きにカラダが反応している。止まり続けようとする慣性に対して、車両について行こうとする動きだ。意識をしなければ気付くはずもない自分のカラダの動き。この程度が十分な反応なのだろう。

停車時、発車時の反応は確認ができた。次はのぞみ号の加速と減速を受容して、感覚を磨いてみようと思う。

合気練功 足裏の要素 その2

合気練功の原理1「足裏感覚」がある。
前回に引き続き私が確認できる足裏要素を認めていきたい。

②  「相手の足裏へ繋げる」
自分自身のカラダが足まで繋がったら、次は相手のカラダのこと。
武術経験のある方が相手のカラダを意識することは比較的ハードルが低いと思われる。
相手の接触を捉えて僅かに重心をずらせば相手は倒れたくない反応で踏ん張る。または肩に手を当てて下方向に圧を掛ければ当然姿勢保持をしようとして足で耐える。単純に足に繋がるはこれでもOK。しかし、接触時に相手が足底のどの辺で立っているのかを受容するのはそれなりの練功が必要であったように記憶する。
合気練功では接触時に僅かにずらすことを行う。この「僅かに」のところがミソで、相手が気付くようなずらし方では相手の脳のコントロール下にすぐに取り戻されてしまう。足が次がれて立ち直られるか、危ないなと感づかれたら力を抜いて体幹部に伝わらないようにする。反射スピードの勝負になっては凡人には勝ち目はない。
相手の意識に上らないように「僅かに」ずらすことと、「僅かに」を自分の操作として実感できるようにすることが、より多くの人と繋がれる練功の方向性と思う。

追記
最近、相手の意識に上らないという点で、「相手の心地よさ」というのも重要な要素であることを再確認することがあった。もう少し纏まったら報告しようと思う。

合気練功 足裏の要素まとめ 

足裏の要素のまとめ

合気練功の原理1「足裏感覚」がある。
合気練功塾の合気の繋がりを理解するために、基本・原理の視点での確認は有意であろうから、徒然に「足裏」に関係しそうなことから認めてみたい。

「足裏へ繋げる」その1
私にとって、相手の圧を使って自分の足に繋げることは難しい課題であった。
相手の圧に対して手・腕で反作用することは容易い。加減して圧を返し、つり合わせるのは練習すればできると思う。微妙に圧力を感じるとその刺激に対して反射的に筋が働いてしまい「手を離せばいいのに離せない」などの現象はこの辺が入り口であろう。微妙さ加減が習熟度ということになるのか。ただし、小器用に手で操作していると言うことは手で対応されると言うことで、全身で対応している訳ではないので、合気の繋がりとしてはダメである。
相手の姿勢保持に影響を及ぼすには、自分の足まで繋げて全身での操作が必要という階段になる。そこで相手の圧を足で感じると言うことになる。どこかに力みがあって固まった関節があると足までその圧は伝わってこないので、各関節を柔らかく…、となる。力が抜けてフニャフニャではもちろんいけないので、この柔らかさ加減がゴム感覚。
相手より大きな力を出してしまうと相手が気付いて対応することができるため、力加減は小さい方がよい。相手の出した力で足まで繋がらないといけないので、相手≧自分の力>0の関係。ここで、自分のカラダが繋がっていれば相手のカラダを繋げるだけなのでタイムラグは小さくなると思われる。
今回は「自分のカラダについて足裏へ繋げる」であった。次回は「相手の足裏へ繋げる」でいきたいと思う。

合気練功はいくつかの螺旋階段を同時に上るようなイメージである。あたかもDNAの二重螺旋の雰囲気である。同じ課題を他の要素との複合でさらに精度を上げていく作業である。以前も足裏感覚について記述したことがあるが、読み返してみると変化が感じられる。表現がどんどん難しくなるのも感じている。ぼちぼち確認作業を進めていきたいと思う。

心地よく「あがって」 その2

気が付けば今回で50本目。これまでのお付き合いありがとうございました。

合気練功塾の基本1系(合気上げ)は腕を動かせないように相手が押さえ込んできたものを、押さえ込みと別の角度で刺激を与えて、意図しない姿勢保持をせざる得ない状況をつくり、相手自身が作りだした力によって体幹部が上がっていくもの…と解釈している。押さえ込んでいたはずなのに、自分のバランスを取らざる得ない状況に追い込まれているため、押さえ込むという力は無力化されている。

しかし、そのような状況を作り出すにはそれなりの条件が必要である。肩関節がきちんと体幹部と繋がっている必要があるし、お尻が上がるにはそれなりの運動エネルギーが必要である。そんな全身が動いてしまうような条件をつくるために合気の原理はあると思う。私が思う合気の原理のポイントは「案配の良さ」である。腕や手首などの接触点から操作するのであるが、足まで配慮して繋がる感覚。基本1系の上げであれば踵が浮く方向の(推進力)調整など。相手の内部を伺い知るような感覚であろうか(これは診察に近いかも)。

いくらカラダが繋げられても力ずくで相手を上げようとするとこれは重たい。無理矢理こじ開けようとしているようなものであるから相手も不快であろう。何かの操作がきていることが分かるためそれに抗う操作も可能であろう。そんな圧の大きな操作では、身体を重たく使うことができる方はドンと塊のままお尻が上がらない(肩の関節の力を抜かれる事は今までも失敗としてあった。繋がった感覚があるのに重たいまま上げられなかったのは別の課題を突きつけられた感じであった)。

合気上げでカラダが上がる時の相手のカラダの状況(内部感覚)はどのようなものだろうか。つまずいて「オッと!」と手をついたときの体の反応と同様のものが内包されている状況が近いのだろうか。または静かに座って何かに手をついてヨッコイショと腰を上げるカラダのはたらきの方が近いかもしれない。
押さるための体勢が別の方向で姿勢保持を担うようになった相手の変化をキャッチできるセンサーも重要である。この辺は繊細な感覚で相手を観ようとすれば磨かれてくる。濃い味の食事を節制し、舌を鍛えて繊細な味覚の違いを受容できるようになるのと同じ鍛錬と考えたらよい。その気になれば湿度だって感じてしまうのが人間の感覚である。最初は判らなくても意識しているうちに判るようになってくるものだというのは、これまでの練功で理解済み。眉唾ではなく明らかにある世界なのだ。

やはり、「あがれ!」ではなく「あがってもいいよ~」程度の操作が程良いと思われる。塾長からは「『上がらなくても良いや』くらいの気持ちで!」とよく言われるのだが、『合気上げだもん。上げられなきゃダメだダメだダメだ…』と感じていた。最近、少し気持ちが変わった。上がるためのおぜん立てができていれば、我慢を解き放つのみ。解放感のある心地よい上がり。どこかの住宅メーカーの宣伝のようだが、握られている腕のところにどうぞお上がり(お入り)ください…か。
「合気は愛気」という記述もどこかで見た記憶がある。格闘技で痛い経験をしてきた身からは全く逆方向。

合気練功 カツンとくるところ

合気練功の動画をご覧になると塾長から「カツンとくるところ」という言葉が良く出ていることにお気づきになると思う。このカツンとくるところというのは合気の繋がりではMustの部分である。最近の練功塾では合気の繋がりを3つの段階で練習しているのだが、この「カツンと」が第1段階である。これが来ないと後は何をやっても空回りである。

さてこのカツンを別の表現で表すと、接触点を使って自分が前に行ける(下がれる)ところと言っていいと思う。間違いやすいのは自分勝手に前に動いてしまう動きで、接触点を使えていない場合である。相手と関係なく一生懸命前に出るのは、カンフー映画でよくある戦う前の構えにメチャメチャ頑張ってキレキレの動作を見せているだけのイメージだろうか。
接触点を使って前に行けると言うことは、全身で相手に合気に掛けられると言うことで、ヒトの重心が動くだけの繋がりが存在しているという状態と思われる。「先に合気にかかってしまう」はこのことであろう。この段階をクリアしたら以降の段階:背中の張りを持たせて、作用点が相手側に行くように手順を踏んでいく。

さて、「カツン」をつくるには原理の総動員が必要と思われる。
上方向の圧で相手の肩関節を参加させて、皮膚操作と、自分のカラダの不安定さで支えさせると相手が固まるような場面がある。私は掴まれている手首の皮膚の弾力性を使って(味わって)いくような、または相手の足からゴムを引っ張っていくような操作感覚で行っている。「カツン」の感覚は一度経験していただくと練功の足掛かりになるのだが、動画や文章では伝わりきらないと思っている。

恥ずかしながら自分の失敗例を報告させていただく(何かの参考になれば‥)。
今までの私は状況の変化で「あ、カツンがでた」と捉えていた。しかし、その変化が僅かだったりするとそれに気づけずに、まだカツンになっていないと、その後の操作を探ってしまう。「上の圧が足りていないのか。もう少し前に引き出さないといけないのか、はたまた自分が自立しているためなのか?」といろいろと行うのだが、どうもこれがいけない。もはやカツンときているのだからそれ以上の操作は余分である。やり過ぎを相手に知覚されて繋がりが切れてしまう。やはりカツンときている状況そのものを捉えられるようにならないといけないようだ。
自分が繋がりを求めて何かしようとする動作は、相手のつかんでいる力に対して操作圧が高い事が多い。自分が掛けられる側だとお解りになると思うが、この圧の不均衡は何かをされている感が否めない。サポートして繋がりたくても置いてきぼりにされているようで、繋がり感が希薄になるようだ。つまり、原理「同調」が必要と言うことであろう。

細かい話になるが、私が掴む側で握っている接触点が上がって行く動きが出てくると違和感を覚える。原因は相手の肘関節が曲がっていく動きなのだと思う。自分自身が「今一つだ」と感じる操作なのだが私も無意識にやってしまう動き。よく練習相手に指摘される。これが「カチンとくるところ」。もちろん要求を満たす動きが出来ていない自分に対してである。