神谷の呟き

内部感覚について(その2)

手のひらで単線のゴム感覚が出たら1元。しだいにそのゴム感覚を全身に拡張していくわけだが、特に2元(複線)のゴム感覚は重要である。2元であるということは、意識的にはゴムがないと倒れる、不安定を内包している状態と理解している。腕のゴム感覚を維持しつつ体幹に繋がるゴム感覚が自動運転にならないと、腕で何かをする意識ですぐに全身性の合気のカラダ(不安定)ではなくなる。私に限らず、塾生の皆さんもそこが大きなハードルになっているようだ。

私の意識の拡張についてはこのような変遷を経た。
腕全体に意識を広げて低反発の円柱を抱いた腕の周りに竹林があって、細い竹のしなりの反発を外から受けているイメージ。ただしこのイメージは今では少々窮屈で、中心を感じるには良いが外への広がりを感じない。そこで次のように変化した。腕が毛ガニになったように感覚毛が生えて、あたかも棒磁石の磁力線のイメージで反発を感じ、感覚をさらに拡張すると背骨を中心とした磁力線のイメージを感じることができる。すでに方向性が失われているので2元というより4元のカラダに近いのかもしれないし、背骨を通過する流れのようなものを感じているので5元(内部感覚)なの?かもしれない。腕・肩に力みがある時は、誰かに腕を押されるといちいちその力の方向に対処する反応になるが、ゴム感覚で繋げることができると入力方向が変わってもカラダの弾力性で受けることができる。これをもってカラダの繋がりの可否を確認することができると思う。また磁力線イメージは気功を行っているときの感覚に類似もしている。

最近こんな変化もあった。細かい話だが、基本1・2系(下げる・上げる変化)でゴム感覚が肩で切れてしまう事が余りにも多かった。そこで自分としては星飛雄馬の養成ギプスのように、肘から肩甲骨を通って背骨につながるゴム(バネ)をイメージして繋がりの意識を強化していたのだが、どうも当たり外れがある。そんな時、ある院生さんが「合気上げの掛かった時は肩がすぼまる」と。そこで練功のイメージを胸骨から鎖骨、上腕骨へ意識して体幹の前面内側に持っていき、肩関節と背骨をことさら意識しないに変えてみたところ、私にとっては具合が良。「含胸抜背とはこれか!」と勝手に納得。(漢文をもっと勉強しとけば良かったよ(;´д`))。「でも、背骨に意識が繋がっていないぞ?」とまだまだ模索中。

内部感覚は自分の内部の感覚であるからして、どのようにイメージしてもOK。だれに迷惑がかかるわけではない。ただ合気練功ではそのイメージが自分にとって正解か不正解かは検証が必要。各自が各自のフロンティア(迷えるコヒツジ)であることが練功の醍醐味と思う。

内部感覚についてはまだまだ表現しきれない部分もある。呟くには余りにもボリューミー。よってTo Be Continuedで。

内部感覚について(その1)

しばらくは内部感覚について流してみたいと思う。
今ではどこが外部でどこからが内部感覚なのかわからなくなっている部分もあるが、合気練功で出会った感覚を挙げていくことにする。

スタートは手のひらの磁石の斥力、ゴムに似た引力であった。以前にも書いたが、正直に初めは何も感じず、周囲の雰囲気にのまれて「あるような…」などと返答していた。在ったものを感じられるようになったのか、無かったものが有るようになったのかはわからないが、今ははっきりと抵抗感を感じる。ゴム感覚で歩を進めて歩くこともできるようにもなった。他ごとをやっている時でも腕に少し意識を持っていくとゴム感を感じられる。ある種の自動運転状態。これは少々危険な状態でゴム感覚に集中しているが、往々にして他事に集中力が切れている状態。塾長やある院生さんは車の運転中にもハンドルに皮膚のゴム感覚を感じている様子。私も人の事を言えないが、事故った時の理由としては理解してもらえない。広義にはわき見運転でしょうかね(笑)。

最近、「呟き」をお読みになる方々とお目にかかることが多くなった。「毎週楽しみにしている」と口々に仰られるので、嬉しさとともにささやかなプレッシャーと戦慄などの内部感覚を感じる。呟きの取り組みで合気練功の要素を自分なりに整理整頓して理解することができるようになった。よってこの作業はまだまだ継続。ここのところ他事に時間を奪われることも多くなってきたので文量が減少する帰来を感じるが、集中力を切らずにサッサと終わらせて落稿ないように練功を続けていく。
…どっちの? 言うまでもないですよね。

合気のカラダ 柔らかく弾力のあるカラダ

相手との繋がりを作るには合気の原理と不安定さを作り出す2元以上のカラダが不可欠である。ただし相手が固まってしまって何も変化(流れ)がないカラダであるとそこからの動きは生じにくい。「つながったな。」「アッ、いけるな。」と感じるときは相手の足裏からの弾力性が感じられたとき。各関節が動く状態で連動していると各関節からスプリングのような反発(推進力)が生まれる。2元のカラダは体幹のゴム感覚が加わるので全身性の働きである。自分が強い柔鞭性のある発条のようなカラダで触れることで相手も全身性の反応となるのだといわれた。

「相手に技を掛けるよりもまず自分が合気にかかりカラダが変化するほうが大事。」
これも塾長の言葉。練功塾では足裏感覚を得て皮膚操作で重心を動かすと基本5系の練習はできるのだが、初めての方や合気のカラダになっていただけない方は難しい。本当に頑張られると膝が突っ張るようになって(ヒトによっては反り腰で)、膝が曲がる要素が無い体勢になってしまう。外力に対して各所で関節をロックして、大腿四頭筋や大臀筋などの大きな筋力で上方に突っ張る体勢である。逆関節の手前のような状態であるので関節が曲がる要素が無い。武道経験があり鍛えている方や関節を怪我されている方にこの反応は多いように思う。推定50~90kgの一塊はなかなか強固で、剛的な力を受けると段々このような体の反応が現れてくるように思う。

「突っ張る体勢でも突破できる合気の感覚」と、お目見えした練功は基本4系であった。4系は相手の足からの反発(推進力)を自分へ繋げて、それを再び相手の足へ返すのだが、自分へ戻す時に相手の変化(流れ)が生じる。この流れで突っ張る関節が動くようになる。自分へ戻る流れをスプリングのたわみのように受けて、コ・コンと跳ね返すと相手は自ら作り出した力で崩れていく。(そういえば、あの塩田剛三先生の動画も跳ねるような印象…。)オンライン講座の動画では2系で示されているが、これが決まった時の相手の反応は「ウッ!」とか、「グフッ!」とか、思わず声が出てしまっている。院生の方々は「やられ演技が上手だなァ~。」とか笑って観ていたが、誰しもが受けて声が出てしまった。強固な塊に成れる体が、反射的に全身の力を発揮させられてしまった感じである。よく考えてみると自分で作った力であるのでパワフルな人ほど声が出るほどの力を受けるだろう。

私が「これは!!」と思ったのがこの流れを感じるということ。いくら原理を尽くしても、塊のままで流れのない方向へはやはり動かないのだ。この流れを説明するのになんと表現するか。「この流れを説明するのになんと表現するか。先人は苦労の末に「気」と言ったのではないか? 信号、刺激、気配…。曰く言い難し。」と塾長は語った。

合気の原理 剛の裏の力について

最近お目見えした練功で「これは!」と思うものがあった。私の中でそこへつながっていく呟き。

今回も過去を振り返ってみる。合気の原理Ⅳに「裏の力」がある。自分を振り返ってみると、ようやく接触点を忘れて相手の足裏を感じられて、推進力を理解できるようになったころである。裏の力の正体が今一つはっきりとせず、なんとなくモヤモヤしたまま(フーン)程度に捉えていたものを、知らず知らずのうちに筋力が生じさせられているのが裏の力と認識した。きっかけは「重心の均衡点をきちんと作ってから」が意識できるようになったことである。条件の欠如が裏の力の理解を妨げていた。そういった意味では原理のⅣとⅤはある程度、つながる感覚を得てから認識できるようになるものだと思う。

相手との重心の均衡点をきちんと作ってから、お尻の穴をキュッと、さらに足の親指の付け根に意識を集中してグッと踏みつけると緊張が伝わって、相手のアウターの筋に緊張が生じる。この剛の裏の力を使うと相手は自分の筋力で重心のある所に移動していく。
自分自身のカラダは足の拇指から内転筋、大腰筋をすぼめて、背骨を中心とした一刃の刃物になった気分。合気道でいう集中力とはこのような感じなのか?と勝手に想像。

いきなり食らうとなかなか衝撃的なのだが、現象説明の理屈としては重心の均衡点は相手のカラダの外にあるので不安定であり、そこで力めば姿勢保持にはならないのだから簡単な事。注意点は局部的な筋の緊張にならないようにすることと不安定を欠かさないこと。つまり合気のカラダで重心の均衡点の喪失がないようにすれば、相手は自ら発生した筋力が跳ね返ってきて床との間に挟まる感じである。(合気のカラダで均衡点の維持が超難問なのですけどね。)

ただし、困ったことに剛的なこの合気はカラダが繋がりにくくなっていく帰来がある。ガツンと来るので防御的に頑張る体の使い方が出てきてしまうのである。筋肉に部分的な力みが生じて何か全身がつながっていかないような感じである。かけている自分も力み始めていて違和感がある。いきなりガツンと来る、自分の合気は掛からない、メンタル的に凹んでくる。「あまり快の感覚ではないな~。」がこの頃の捉えであった。(つづく…)

合気練功の運用について

先日、集中講座があった。今回も熱い受講者の方々が集まって、午前・午後と合計6時間の講座であった。九州や大阪から2回目、3回目の方々、さらに遠く韓国から合気練功を体験するためだけに来日された方もいた。合気道、空手、太極拳などの経験者はもちろん、武道経験のない方や介護関係の方もいらっしゃった。せっかくのご縁であるので感覚が伝わるように精一杯させていただいた。

お相手させていただいて気づいたことは、足裏感覚の不確かさと複数のことを同時に行う困難さである。足裏感覚については接触点に加えた力がきちんと相手の足まで影響しているか、体勢の変化に対して足裏を取り続けることができているか、で苦労されていた。足裏を取れていても皮膚操作で手前に引くと下方向(足裏)への圧がなくなってしまったり、乗りかかって圧が強すぎたり(下への圧が強すぎても腕や体幹の受け止めになって、足裏への影響が減るように思う)。それぞれがちょうどよい塩梅で複数同時に行うことが難しい。「やはりそだね~」塾生も私もそこで苦労しています。感覚は少し間があくとぼやけてしまうし、感覚を維持した状態で操作を習熟していかなくてはならない。

私見であるが、合気練功の運用はざっくりと武道的には時間(間(ま))、施術や介護へは繊細さへの方向が練功としてあるように思った。合気練功を各種武道を補うパーツにするには合気の感覚や原理を整えて瞬間の接触を可能にする必要がある。演示としての状況設定はありかもしれないが、実際は静止した状態からのスタートはあまり考えられない。ちょっと応用は可能かもしれないがそれで自分が満足できるか。両方の成立条件を照らし合わせるぐらいならば、むしろ合気練功をベースとして再構築した方が早いような気もしてしまう。
故障を抱えている方やお年寄りのか弱く上がった腕を取って、筋肉のバランスを取り、カラダを繋げて動けるように施すには繊細な感覚が必要と思う。ついつい生の力で接してしまうが合気の繋がりは得られないだろう。

半年間に渡った集中個人レッスンが一区切りついた。合気の練功が何周練り込めたのか比較できる基準はないが、これから練功していくピースはある程度揃ったように思う。私も武道・武術からスタートした口なので達人の世界に憧憬がある。でも今更、最強への憧れはない。動機は各自にあると思うが、身体操法の可能性を切り開く合気練功は良いものであることは間違いないと思うし、練功はやっていて楽しい。何に使うにせよ練功を十分に練りこんでいくことで各方面へのスタートは切れそうだ。