神谷の呟き

合気練功 の 虚構 ✖ 嘘 = 真?

「合気練功は嘘なんです。」
木曜日の晩に行われる合気練功研究会で、ある研究生が基本4系について質問をしたときに塾長が言い放った言葉である。「えッ?!」その場に居合わせた研究生一同は言葉を失った。

質問の内容はこうである。4系の練功では、相手に圧を加えた後に相手が姿勢保持をしようと押し返してくる反発を使ってカラダを繋げる。そして相手と自分の重心の均衡点を迎えたときに、まずはその内圧を使って自分の重心を動かしてみる練功を行う。現象としては自分が後ろへ跳び下がっていくのだが、この時、カラダのゴム感覚が切れずに溜まった内圧が漏れることなく移動できれば、ピョン、ピョンぴょん…と下がっていくことができる(動画などご覧になったことがあると思います)。この後ろへピョンピョンが「上手くできないのです。どうしたらよいのでしょう?」というものだった。
その返答が
「合気は嘘なのです。」
であった。
「!?」、「??」の研究生らと塾長の間でいくつかの応答がやり取りされたのだが、おそらく以下のような事が塾長の心意と思われる。
合気練功は自分の要素と相手の要素が存在するが、今回は自分自身のカラダや感覚のつくり方・持っていき方についてである。塾長に4系をかけられると吹っ飛ばされたように後ろへ飛び下がる。これは両者で作り出したヒトの重心を移動させることができるほどのエネルギーが、漏れなく運動エネルギーになったためである。しかし我々が行うと、いくつもの関節で繋がりが切れて力を逃してしまうので、弾力性を失って吹っ飛ぶほどの現象は起きにくい。
そこでまずは自分のカラダのエネルギーロスする部分を少なくする練功をしようということである。上記に「相手からの反発を使ってカラダを繋げる」としたが、望ましくは自分のカラダは最初から繋がっていて、しかも内部感覚が少しの刺激で重心移動できるほどに高まっている方がよい。
そこを作るために自分に嘘をついて騙す練功である。相手と触れていない(虚構)状態であっても、自分の感覚ををだまして(嘘)、一本の張り(内圧)を持ったカラダを練功すれば、触れた瞬間に相手の重心を移動させる圧をもつ合気のカラダ(真)であると私は理解した。

従って、塾長としては「どうしたら?」の回答として、その形だけを模倣してピョコぴょこ跳びはねてみても、内部感覚を伴わなければこの段階の合気練功としてはあまり意味がないと伝えたかったのではないか。
生じた内圧で自分の重心を上手く動かすことができるのならば、相手の重心を動かすコツも早く気付くことができる。これが次の練功。結果、4系では相手が自ら作り出した圧で相手が吹っ飛ぶことになる。

有るもの(プラス)を無い(マイナス)とシャットアウトすれば無いこととなって、出会うことすらできない。無いものをさも有るかのように演じてもそれはやはり嘘である。有るかもしれないと思って探し続けるところがトレジャーハントのような大人のロマンと贅沢。

でも、いきなり「嘘です」はインパクト抜群で吹っ飛びますよ。

合気練功 ファーストコンタクトについて

合気練功塾の様子2

最近、私が気になっている事が相手と接触する瞬間である。
私から触れるときではなく、どなたかの相手(受け)をするときにどこまで侵入されたかを感じる事が癖のようになっている。

合気練功塾においては相手の足裏まで影響するように接触して圧を加えていくことが当然のように行われている。それは2系(下方向への変化)で下に圧を加えながら皮膚操作で前足底に重心が来るようにする練習を繰り返してきた結果であろう。しかし2系は足を捉えるにはよいが、年齢を重ねた身体には「支えたくない…。」「しゃがみたくない!」などの別の要素があったり、なかったりするので練功が難しくなる。(言ってるそばから今日は腰が痛いな…)
そこで塾長は4系に練習の重点を変えたのである。4系では相手の後ろへ加圧していくわけだが、何かにぶつかったとき倒れないようにバランスを取る動きは特に抵抗感がない。よって姿勢保持のはたらきを導き出すには難しい要素がない。なるほど!
実は4系のとき下方向へのベクトルはない方が良いようだ。上から下への皮膚操作が入ってくると肘、肩に緊張が生じて繋がりが肩で切れてしまいやすい。これは当然のことで、普段の生活で「はいよ。」と物を手に乗せられたとき、まずは腕で受け止めて、毎回全身で支えることはしない。普通の動きが生じてしまうのだ。単純に水平に加圧していき「倒れたくない」と姿勢保持のはたらきが生じるようにさせてやればよいのだが、いかんせん下方向の操作が加わってないので足へ影響しているイメージが持てないようだ。

そんな時、私は接触点の皮膚を上にずらして「下へ」を相殺し、自分のカラダがつながりやすい状態にして積極的に自分から合気にかかってしまう。塾長がよく言う「まずは自分が合気にかかってしまう」を実践している。するとお互いに弾力感があってこちらからもいけるなという感覚になる。自分の練功をさせてもらっているわけだ。
エラそうな表現になって恐縮だが、まずもって腕の緊張を誘うようなドンとした圧の加え方は腕だけの対応になり、私の「動かないぞ!!」の部分を引き起こして終了。(合気練功で私の関節が曲がってしまうぐらいの力は論外。わたしが吹っ飛ぶぐらいの圧ならば合気練功ではないところで素晴らしい)
接触に下方向への要素が含まれており、私の繋がりが肩で切れるのも腕だけの対応となるのでよろしくないが、こちらの微調整で練習は継続可能な感じである。

予期せず、練功中にこちらの調整の必要がなく侵入されると「おぉ♪(ノ)‘∀`(ヾ)!」となる(塾長や院生は別です)。最近、その瞬間が期待とともに気になっている。
追記:先日、塾生のある方に、明らかに下方向へのベクトルが含まれる触れられ方をされたのだが、意もない、あまりにも柔らかい触れ方で容易に足の指まで侵入されてしまった。もう一度やられてみたい。

合気練功倶楽部: 倶(共)に楽しむ部屋について

先日、3連続の東京集中講座の最終回が行われ、今回も参加された受講者の方々と楽しく練功することができた(打ち上げの会では歓待を受けました。本当にありがとうございました)。月1回、合計3回の講座であそこまで感覚を得ていらっしゃる状況に少々驚きを、そして合気練功に対する熱意に敬意を感じた。聞くところによると自主的に練習会を行って功を積んできたとのこと。素晴らしい!

やはり合気練功の胆は「感覚」である。アスリートが練習を怠たり、試合から遠ざかると勝負勘が損なわれるが、それと同じように絶えず感覚を意識して磨いていかないと合気練功の勘どころは鈍る。鈍ればやはり思うようにいかなくなる。定期的に練功して感覚の維持に努めて琢磨していないと、容易に振り出しに戻ってしまう(最近、足圧の技術に衰えを感じて焦っております…)。
以前、自分の仕事が忙しくて月に1,2度しか練功に顔を出さなかったとき、塾長から「もう少し間を詰めて集中してやればわかるようになるのだけどね…。」と言われたことが懐かしく思い出される。

また相手の個人差や異なった姿勢になった場合もその感覚は違ってくる。例えば相手の足が並行なのか、前後に開いているのかだけでもカギとなる足裏まで到達する感覚は異なっている。一端、気付いてしまえば皆同じなのだが、私の場合は多様な状況の中で共通する感覚を拾い上げる練功が毎回必要である。様々な状況でも共通の感覚が得られるように繊細に日々の練功を行っている。

しかし、一つ一つを自分のカラダから拾い上げる作業が今は楽しい。合気練功を武術の技のカギのようにとらえていた時は「こんな途方もない技術修練…。」と凹んでいたこともあるが、それは自分の武術に合気練功を入れ込もうとするから大変と感じたのだ。
「感覚を耕し土壌作りをするのが合気練功である。良い土づくりができれば後はそこに何を植えようが自由である。」と塾長は言う。合気練功は単なる技ではなくいろいろな事のベースとなるカラダ作りと捉えるのが正しいと思う。

花か?野菜か?どんな作物を育てようかと思案するのも楽しい事である。良い土づくりできればこの先の良い収穫は期待できるが、土づくりそのものが楽しいのである。ともに良い感覚(耕作)をつくる場面を楽しみながら、「ああ、あなたは合気道なのね、あなたは太極拳、空手、気功、拳法、介護、美容、整体、~、~、~、人との関係にも使えるね。」などと、先々にロマンを感じる会話も乙だと思う。

合気練功の「軸」と呼ばれるものについて

アメリカから遙々、練功塾に来られる方からメールでお題とともに内部感覚についての新しい視点をいただける。確認の意味もあって深く考えたことがない視点について改めて考えてみる。「もっと深い概念がそれぞれの分野・流儀にあるのだろう」ということを十分に承知で自分勝手に呟かせていただくことにする。

武道やスポーツではよく体軸について語られる事がある。
身体の運動で物理的に高効率な動きができる時に見出される、基準となる線のことと思っている。人間の体は歯車やベアリングではないので、その線を作るのは連動するマッスルベルトであるので本来はとても複雑な動きの基準線である。運動の方向性によってさまざまな軸が見て取れると思われるが、運動時の筋肉の協調性を表現する際に「軸」と総称しているのではないだろうか。
体幹の回旋では鼠蹊部または股関節を意識して動くことを教えてくれたのも、松原先生と呼ばれていたころの塾長だった(懐かしい)。私自身の背骨揺らしの自発動もよく確認してみると右足から左肩に抜ける動きがやりやすく、反対側は少し渋い。この偏差が筋の過緊張や疲労の偏りをもたらしているのであれば、操体法や整体でバランスを取ることは有意である。

静的な立ち姿については、骨格が無理なく頭部を支えている位置関係が「軸」と捉えられるのだろうと思っている。大後頭口の前縁が仙骨の上にくるぐらいで背骨がS字湾曲している感じだろうか。椎体が積み木のように約7㎏の頭部を支えていれば、筋肉が緊張し続ける必要はないが、日本人は頭部が前方に出て猫背や反り腰が多いらしい。7㎏の鉄アレイを持って「前ならえ!」筋肉はすぐにプルプルする。これを首や背や腰は長時間やっているのだと思うと部分的な凝りが生じるのも当然である。本来は存在しないものを意識して、運動を整えるあたりは合気練功と同じであるが、やはり難しいので「お尻をすぼめてお腹が凹むと仙骨が良い角度に立つ」なんて、とりあえずの整え方が様々な媒体で紹介されている。

さて合気練功の体軸についてだが、2元のゴム感覚で姿勢保持筋をはたらかせるとき、反り腰、前かがみ等、背骨が不揃いだと、カラダのゴム感覚が緩んだり抜けたりすると感じていた。よって背筋は真直ぐな軸を保ったまま、寄り掛かりにならないように体幹前面に重力がかかるというのが、不安定を内包しているカラダの状態と思っていた。しかし昨今、背骨を弓ならせる・湾曲させるなどの意念が登場してきた。背骨を繋ぐ筋の張力を用いるということで、外見上、弓なる必要はないのだが、真直ぐな背筋が必要とはなっていない。

合気のカラダがきちんとつながると、意識上で背骨を通じる線が四肢に分岐して指先まで到達していく。これが塾長のイメージで、「軸」という物理的な線はあまり意識されていないようだ。ただし、もしかしたら「そんなものは自動運転で結果的に整ってしまう。」と一蹴される事なのかもしれない。

合気のカラダ 背骨揺らしの自発動について

練功塾で塾生の前に立って背骨揺らしをリードする機会があった。自分の練功の過程で腑に落ちた瞬間のもろもろや各練功のつながりに気づいた部分をご案内できればと思い、皆さんの前に立った。

背骨揺らしは禅密気功の築基功に端を発し、蛹(縦)、擺(横)、捻、そして蠕動と進んでいく。動きに慣れてくると自分のカラダを内観する余裕が持てるようになる。外側の動きに捕らわれていると自分のカラダの欲している動きに気づけないが、指令する脳から感じる脳にチェンジして、動きの渋いところを動かしたい要求に素直に従えば背骨の運動に変化のチャンスが生まれる。
ある時、自分の練功で蛹動(縦揺れ)を行っているときに気づく事があった。人間の体は基本的に利き手・利き足による偏りがあり、完全なシンメトリーではない。よく感度を澄ませると脊柱起立筋に左右差があることを感じる。その左右差による凝りのような箇所を、油粘土を引き延ばすように動かしてやると縦揺れ運動に横揺れ運動(擺)の要素が加わる。その移行を徐々に動かしていくと縦揺れから横揺れ運動(擺動)になる。横揺れ運動(擺動)も繰り返すと捻じりの要素を背骨が欲するようになる。2次元の動きが3次元に移行していくのである。これが蠕動であるべきなのだと思った。

おそらく禅密気功では、いきなり自分のカラダが欲する(受動的な)、背骨を中心とした全身運動は無理があるので、階段として蛹(縦)、擺(横)、捻を設えたと考えられる。最終的にはそれらの区別が無くなり、極論は蠕動だけになる。それぞれの動きをリンクするキーワードは自分のカラダが欲する所(内部感覚)であろう。

練功塾の場面では咄嗟に言葉が出てこなかったが、後で塾長に確認すると自分のカラダが欲する動きを「自発動」と呼ぶそうだ。その自発動を感じられる能力が「推進力」を背骨が受容する感度になっていくと思う。昨今、練功塾では推進力を背骨の撓みに蓄えて、相手の重心を動かす事に使う練功が行われている。背骨の張りを作るのに背骨揺らしの感覚は重要であると思う。

追記:この日の練功塾からの帰り、塾長から「背骨揺らしを自発動につなげる指導は良かったね。今日一(きょういち)だったよ。(今日、一番良かったよ)」と褒められた。ほんと、久しぶりに褒めてもらえましたよ。