内部感覚

合気練功 Touch as can . (タッチ アズ キャン)

昨今の合気の繋がりは基本1系(合気上げ)である。本当はどこの部位でもどのような接触でも触れたらすぐに繋がることが理想なのだが、塾生が(院生も)なかなか十分な繋がりの状況を会得できないので、4段階(ちょっと前までは3段階)のプロセスでかれこれ4ヶ月取り組んでいる。その第1段階は「肩に圧をかけて」である。これは今までのブログでも何度かしたためているテーマである。

相手が手首を握ってくると言うことは、実際の武術・護身ではあまり臨まれる事がないパターンである。ということは実践のひな形を練習したいのではなく、他の目的のためにあると私は考えている。私の練功では相手のカラダのパフォーマンスが察知できるということが大きな意義と思っている。結局、握ってきた腕を押したり引いたりしても肩関節が弛んでしまうと体幹部へ操作が伝わっていかないのである。相手の肩関節が体幹部と連動して、手先から肘・肩へ操作が伝わる状況にあることを感覚としてキャッチできることにあった。

練功塾での解説に、「放物線を描くようにまず上への圧をかけて…」とあった。その後、上への圧を消さないように手前に引いていくと肩関節は比較的繋がったまま体幹が引き出せる。体幹が引き出せると言うことは重心を引き出せたと言うことである。
この第1段階が上手くいかない時を分析してみた。
上へそして手前へと操作に角ができると繋がらないときがある。やはり肩関節に個性があり、人によっては上への圧が無効になってしまうようだ。放物線状に滑らかに曲線で持って行くと、肩関節がカツンと引っかかるところが見出せるのだと思う。でも最初から放物線状には難しく、上 → 手前になってしまうのだろう。
次に、上への圧が消えてしまうときは繋がらない。院生に言わせると繋がれないという表現が近いらしい。放物線状の操作が本当に放物線になってしまうとよろしくない。操作としては放物線の一部分が必要であるので本当に降りてしまってはいけないのである(理系の方ならば「とある塾生の雑記6」にある無理関数(根号を含む関数曲線)という表現の方がピンと来るのかもしれませんね)。この上への圧が抜けるのは自分の足が繋がっていないためと思われる。足で圧を受けていないので肩関節への上への圧が消えてしまうのだろう。
いずれにせよ腕での操作を行うと失敗のリスクは高くなると思う。足まで繋がった合気のカラダで「背骨揺らし」のようにカラダを使って放物線を描けるようにいきたい。相手の肩関節が力を発揮しやすい状態を維持することで体幹部が繋がるという状況ができているので、「力任せ・無理がある・違和感がある・馴染まない」などの操作は目的達成にならないのである。

今回の表題はランカシャースタイルレスリング(CACC)のことではなく、「触れたら繋がる」をイメージしてみた。塾長の示演のようにスッと、ヒョイッとネチッと繋がりたいモノである。

合気練功 自らのこと

己こそ己の寄る辺、己を置きて誰に寄る辺ぞ…、清きも清かざるも自らの事なり。他の物に寄りて清むる事を得ず。

合気練功とは別の話。相手が掴みに来るところを、間を外して少し重心を基底面から外してやる。相手は立ち直ろうとするので力を出す。この力を利用して立ち直りが達成できないようにずらしつつ、相手の体幹に作用点が来るように誘導すれば技になると思われる。相手がどのような方向で立ち直りの力を発揮するかによっていくつかのパターンに分けることができて、技の名前がついているのであろう。この「間を外して」や「ずらしつつ」の部分が難しく、スピードとパワーが重要と考えていた次元からは、別世界の優れた技術だと思えた。
今、検めてこの手の技やその類の動画を見たときに、その多くは術者の意識が相手のカラダにあるように感じる。示演であるためであろうが、相手がどのように力を発揮してきたかによって各種の対応があるように見えてしまう。

合気練功の話。東京の練功倶楽部に出向く際に塾長から指導いただいた事なのだが、相手の接触を使って自分の足裏へ圧を感じると、おのずと相手の肩関節に圧が生じるようだ。今まで「放物線状に肩関節に圧をかけて…」と、自分が行っていたものは相手のカラダに意識があり、操作が分かってしまう(バレてしまう)。How to 物やマニュアル文化に慣れた身では、「どうすれば?」とすぐに念頭に浮かぶが、相手を何とかしようとする意図は外からも見て取れる動きに出てしまいやすい。

足を繋げる、足に繋げる、足が繋がる、足で繋がる、足と繋がる、足も繋がる。これらはすべて、原理の「足裏感覚」に集約される。合気の繋がりの結果、形成される足の動きや重心の位置のことで、合気の繋がりにおいて好ましい動きや重心の位置関係ができたかどうかを判断するために足裏の感覚を受容する必要があると解釈している。

センサーの部分も含めた合気のカラダで、何度も見直しを繰り返して深まっていくモノが合気練功であろう。要を成す術として考えると、やはり相手ではなく、自分の内の何かが重要に思える。各種アドバイスはいただけても、どの操作感覚が良いモノなのかは自分の感覚と照らし合わせて検証を重ねていくしかない。

冒頭の「聖句」。
所詮は同じかもしれないと期待するのだが、相手にちょっと寄りかかって繋がる部分は「ちょっと貸してね」で他のモノに寄っている。自立はしていない。ここの部分はもう少し腑に落ちる解釈ができるといいなと思う。

心地よく「あがって」 その2

気が付けば今回で50本目。これまでのお付き合いありがとうございました。

合気練功塾の基本1系(合気上げ)は腕を動かせないように相手が押さえ込んできたものを、押さえ込みと別の角度で刺激を与えて、意図しない姿勢保持をせざる得ない状況をつくり、相手自身が作りだした力によって体幹部が上がっていくもの…と解釈している。押さえ込んでいたはずなのに、自分のバランスを取らざる得ない状況に追い込まれているため、押さえ込むという力は無力化されている。

しかし、そのような状況を作り出すにはそれなりの条件が必要である。肩関節がきちんと体幹部と繋がっている必要があるし、お尻が上がるにはそれなりの運動エネルギーが必要である。そんな全身が動いてしまうような条件をつくるために合気の原理はあると思う。私が思う合気の原理のポイントは「案配の良さ」である。腕や手首などの接触点から操作するのであるが、足まで配慮して繋がる感覚。基本1系の上げであれば踵が浮く方向の(推進力)調整など。相手の内部を伺い知るような感覚であろうか(これは診察に近いかも)。

いくらカラダが繋げられても力ずくで相手を上げようとするとこれは重たい。無理矢理こじ開けようとしているようなものであるから相手も不快であろう。何かの操作がきていることが分かるためそれに抗う操作も可能であろう。そんな圧の大きな操作では、身体を重たく使うことができる方はドンと塊のままお尻が上がらない(肩の関節の力を抜かれる事は今までも失敗としてあった。繋がった感覚があるのに重たいまま上げられなかったのは別の課題を突きつけられた感じであった)。

合気上げでカラダが上がる時の相手のカラダの状況(内部感覚)はどのようなものだろうか。つまずいて「オッと!」と手をついたときの体の反応と同様のものが内包されている状況が近いのだろうか。または静かに座って何かに手をついてヨッコイショと腰を上げるカラダのはたらきの方が近いかもしれない。
押さるための体勢が別の方向で姿勢保持を担うようになった相手の変化をキャッチできるセンサーも重要である。この辺は繊細な感覚で相手を観ようとすれば磨かれてくる。濃い味の食事を節制し、舌を鍛えて繊細な味覚の違いを受容できるようになるのと同じ鍛錬と考えたらよい。その気になれば湿度だって感じてしまうのが人間の感覚である。最初は判らなくても意識しているうちに判るようになってくるものだというのは、これまでの練功で理解済み。眉唾ではなく明らかにある世界なのだ。

やはり、「あがれ!」ではなく「あがってもいいよ~」程度の操作が程良いと思われる。塾長からは「『上がらなくても良いや』くらいの気持ちで!」とよく言われるのだが、『合気上げだもん。上げられなきゃダメだダメだダメだ…』と感じていた。最近、少し気持ちが変わった。上がるためのおぜん立てができていれば、我慢を解き放つのみ。解放感のある心地よい上がり。どこかの住宅メーカーの宣伝のようだが、握られている腕のところにどうぞお上がり(お入り)ください…か。
「合気は愛気」という記述もどこかで見た記憶がある。格闘技で痛い経験をしてきた身からは全く逆方向。

Tスタイル No.5 〜合気練功の日々〜 「バットマン」

Tスタイル No.5 〜合気練功の日々〜
「バットマン」

最近、改めて毎日の練功の大切さを感じています。個人レッスンや研究会で松原塾長や院生・研究生の方々から様々なアドバイスをいただき、対練に取り組んでいるのですが、自分自身まだまだ満足できるレベルには達していません。 やはり、個人の練功の量も質も不足していると反省しています。

特に感じるのは、練功の質の問題です。形にとらわれず、イメージを豊かにして、自分をぎりぎりまで追い込むような練功が必要なのでしょう。皆さんも色々と工夫して練功されているようですが、私もある本からヒントを得て、新しいアイテムをアマゾンで購入し、それを使って練功しています。そのアイテムとは・・・?

それは次回のお楽しみということで。(実はまだ使いこなせていないので。すみません。)

話は変わりますが、最近、バットマンにはまっています。「ダークナイト」3部作のDVDを観て印象に残ったのは、バットマンが高い塔の上に立って夜のゴッサムシティの街を見下ろしている場面です。あの不安定な場所に立ってバットマンは何をしているのでしょうか?

( ここからは完全に妄想の世界に入りますので、お許し下さい。)
そうです!バットマンは自分を不安定な状態に追い込んで、練功しているのです。
そう言えばブラックのユニフォームを着て、木曜日の夜に集まる塾長・院生・研究生の姿は、まさにバットマン!

皆さん、バットマンに負けないように毎日しっかり練功しましょうね。

合気練功 悩ましきこと

私事で恐縮だが、困っていることがある。
何についてかというとオンライン動画の編集である。

昨今の合気練功塾は「合気の原理」で繋がっている現象を断片的に捉えることを必要としていない。
以前にもここで述べたことだが、合気をかけるときに必要となる要素を説明するために合気の原理はつくられたと言ってよい。相手の「足裏」まで影響する皮膚の取り方ができているか、自分も「足裏」まで使うぐらいの全身性の操作ができているか。力のぶつかりが生じないような作用・反作用の感覚を「推進力」として受容できているか。などなど。確認をするための視点が原理である。

塾長からのお題として、あまりやっていない新しい接触の仕方とか留意点などの「意識するもの」があると無意識でできていた部分が消えてしまうことがある(または、自分の中で作りだした迷いであるとか‥)が、研究生さん方は接触時に足裏に影響する取り方はほぼ普通にされている。推進力のかけ方も同様である。練功の方向はますます繊細な方向で行われていて、例えば肩関節の反応の個人差を言及したり、妥当な操作を知覚できたorできなかったなど、感覚の領域を追求している。いちいち原理を意識して断片化は必要がないのである。
合気上げ(基本1系)も推進力で上げるというよりは、相手の力で上がってもらっているので、焦点は内部感覚の変化である。内部の変化は外部の動きに先立って生じているので外見上は何もない。むしろ、外見上に変化があると言うことは目的としている内部感覚の操作を飛び越えているので、合気の繋がりとしてはやり過ぎ。気功のごとく、足の下から何かしらを吸い上げて背骨を通じて中心に集めて頭頂部に抜ける、雑誌「秘伝」で見たあの矢印のイメージがだぶる。スイッチとしての動きはほんの数ミリである(センチ単位で動かすと相手に次ぎ足されてしまう)。武術を目的とするならば相手も力を出してきているので、そこまでの繊細な操作は必要ないと思われるが、確かめに来ている場合はやはり繊細に相手のカラダを感じる必要がある。

そんな数ミリの動き、または動きのない操作が合気練功の技術として大事で、その辺りを練習課題として行っているのである。この風景を材料にオンライン用の動画を弄るわけだが、はっきり言って観てて分からない。塾長もそれを分かっているので外側に見える動きで示演をしてくれているのだが、逆に望ましい入力になっていない感じも受ける。自分なりに言葉も尽くしているのだが、言語化とはかくもああ悩ましい。
オンライン動画に価値を見いだしていただいている方々の期待を裏切らないように、この方面も修練を積んで行かねばならないと思う毎週である。