内部感覚

神谷の呟き 新幹線の車中での発見と反省

新年度になり、転勤を機に泣く泣く合気練功塾から離れられた方も出てきた。逆に新しい生活をスタートされた研究生もいる。かくいう私も新しい職場になり、まだペースが掴めず時間の配分がうまくいっていない。アップが遅延しており反省している。

合気のカラダ作りでは全身を繋げて弾力感を持って動けるカラダを目指す。
僅かな力でも動くことができると相手の関節に負荷を加えずに合気を通すことができる。通常のカラダの使いでは腕が働いて自分が足まで繋がっていない状態に陥りやすい。塾長に「固い」と評される。日頃から触れるものを利用して足まで、座っているときはお尻までつなげる練功を心掛ける。

新幹線では背もたれ部分にテーブルがついている。テーブルの一番下部を相手の足として自分のカラダを繋げてみる。このテーブルには可動部分があるので誠にちょうど良い。テーブルに掌を置いての2系の練習でもよいが、下から1系の方が難度が高い。過度に力を加えるとテーブルが動いてしまうため、ゆるく入る練功に適しているのだ。
このことは「Tスタイル」で文章を書いておられる研究生の方も実施されているそうで、道中、テーブルと繋がっているそうだ。皆様、お試しあれ。

先日、いつものチケットをネットで手配するのだが、年度初めの忙しい時期であったのでこだま号のグリーン車しか取れなかった。さていつものようにと、テーブルを出して繋がってみる。テーブルの感触を上方向の圧と感じてお尻にその重みを受ける。自分のカラダに座面に沈んでいく流れを感じる。セルフチェックでOKである。肩甲骨を皮膚操作で引き、前方に出られる感覚を臀部に摩擦として咬む。エマージェンシー!!
こだま号(グリーン車の?)のテーブルは手前に引き出す事ができるとは知らなかった。皮膚操作のとたんにテーブルはずるりと前に動き、結構な音で響いた。

合気練功では内部感覚で流れを作る。外見から見えるところに動きが生じていると、内部感覚で作りだしたせっかくの流れが動きとして減じていくと感じる。引くという操作はよほど気を付けていないと接触面を引っ張ってしまう。意念の操作を心掛けていても自分のカラダがいかに不随意であるか、反省する出来事であった。

神谷の呟き 二次元情報

ある講話で「若者に不足しているのは感動の機会である」と。
講師曰く、ゆとり教育は家庭での時間を増やす事で感性への刺激を期待したが、核家族化の影響で何を施したらよいかわからず、結果、「ゆるみ(ン!?)」になってしまったと。

ネットの発達と普及でとても社会は進歩したと思う。でも、記憶を外部に依存する傾向から明らかに何か失っているものを感じる。
我が家の子供達を観る。1日のかなりの割合をネットに費やしている。動画やオンラインゲームに興じて時間を失っている。画素は細かく、色彩もビビットに、動きもより滑らかになっている。さらに視点が複数であったり、普通では見えない角度やスピードであったりと肉眼に比較して情報は増えている。芋蔓式に次の動画が紹介される。
…。ネットへの接続で情報を得ることは容易になったのは間違いないが所詮は平面の視覚情報。その他の刺激の種類はない。果たして本当の感動はあるのだろうか?

合気練功プロジェクトではオンライン講座を配信している。一般動画では公開していない「合気のカラダ」の作り方や、基本5系の技の紹介など丸特情報満載である。見取り稽古になるように塾長も外見上の変化を大きめに表してくれているし、私も頑張って編集しているが、伝わる情報量はいかばかりだろうか。
申し訳ないが、定点。音量・音声も不明瞭なこともある。編集ソフトの能力も編集者の能力も…。

武術の技術を求めて方々へ出かけていた頃を思えばネットの普及はありがたい。スタートを探すに、選択肢を増やすことができる。でも実際の所、合気は触覚と内部感覚の世界。理屈を捏ねてみても触れて合気を感じてもらうことが本当のスタートだと思う。

神谷の呟き なまくら刀は切れ味が鋭い 可能? or 不可能?

合気の繋がりのためにはまず自分の受容感覚を磨く必要がある。合気練功の技を受けても何が行われたかを感じることができなければ、「何で?不思議?」で終わってしまう。まずは足の裏に、または皮膚、さらに背骨に意識を持っていって感じる脳を鍛えないと始められない。合気練功塾ではその操作感覚を理解してもらうために、あえて大きめの操作(圧)で操作を行って必要事項を確認し、そこから操作を細くしていく手順を踏む。
合気練功の操作は相手の意識に上らないレベルで相手の姿勢保持に影響をするが、雑な圧の高い操作では身体感覚に鋭い方にキャッチされて対応・変化をされることが多い。よって相手の閾値に達しないように「そオッと」行うのである(でも、姿勢保持の神経の閾値には達してところが激難)。操作を細くしていく必要性はそこにあると理解している。

過去の失敗談であるが、塾長のお宅へ個人レッスンに通っていたときに塾長の説明に対して何となく抗うような動きをしたことがあった。
「そんなことしてたら解らんよ。」塾長に言われた。そのときはその言葉の真意が良く理解ができず、単に「こうしてみたらどうなるのだろう?」程度の好奇心?半分無意識的な動きだったと思う。私に慣れが生じていたのだとも思う。
今では言葉の意味がよく分かる。操作感覚を伝えようとして、私が感じられるあえて大きめの操作に対して、私が変化したのであるから、学ぶ側の姿勢として失礼極まりないことであった。

切れ味鋭く研ぎ上げた刃物をあえてなまくら刀にして、また瞬時に切れ味を戻す。なんてことができるのだろうか。少なくとも最近の塾長は集中講座の説明の時にやっている。塾長の中のある幅でやられているのだろうと思うが、私にそんな器用なことをやれる自信はない。感覚を研ぎ上げる修行の途中であえて鈍らせる作業が面倒くさいと感じたら、塾長は指導をやめてしまうかもしれない。とても心配な事である。

合気練功 基本〇系というもの

基本○系というもの

合気練功塾には基本1系~基本5系という練功課題がある。基本1系は相手が上へ上がる、基本2系が下へなど、方向によって分けられている。方向が決まっていた方が練習しやすいし説明しやすいためであるが、これは初めのうちだけである。

合気の技は基本的に相手の力を使って動きが作られる事になるので、相手が力を発揮しないと基本○系にはならない。
基本1系を例にするといわゆる合気上げであるが、相手のカラダに上がっていく要素が発生していないと合気で上がっていかない(関節とか、重心移動で操作すれば上がると思うが、それは合気ではないと思う)。「相手が上がる」と言う現象だけにこだわると失敗して、上がらないことが多い。それは相手が上がらない・繋がらないカラダになってしまうからである。

例えが適当かは判らないが、空手などのいわゆる上受けは上段の突きに対して有効な受け方であるが、「上がらないカラダのヒトを上げてみろ」というのは中・下段の突きを上受けで受けてみろと要求しているような感じに思う。

では、本当に上がらない構えで挑んでくる人に対して、合気練功で上げることはできないのかというと、塾長はスッと上げてしまう。どうやら脊柱で頭部を支えている状態であるならば不可能ではないようだ。

完全に上がらないように構えているカラダには上がるように要素を作っていかねばならない訳だが、相手の受容を可能とする閾値の超えた操作では相手はさらに上がらないように変化をしていく。その辺りがソフトタッチ(の虚?)へと繋げていかなくてはならない部分だろう。今後、合気のカラダのゴム感覚がとても重要となるだろう。

とある塾生の雑記 その7

とある塾生の雑記その7 「ここ」とは?

最近、練功塾では合気がかかる瞬間の「ここ」というポイントを如何に早く作ることができるかを練功しています。今まで合気練功のための修練体系である合気のカラダや合気の原理を通して一つ一つ過程を確認しながら合気の疑似体験していたものを、本当の合気にするための一つの大きな転換点とも言えます。今回は、この「ここ」についてお伝えします。

柔らかな接触で相手の皮膚の遊びをとり、相手に察知されないレベル、あるいはもし仮に察知されても不快な感覚を与えないレベルの弱い刺激(裏の力)で相手の関節を詰め、筋肉を緊張させて一つの塊にし、二人で一つの重心を作るポイントが「ここ」です。この時接触点を通して私自身も合気がかかった状態になっているため、「ここ」とは自分に合気がかかるポイントとも言えます。

練功法は、ドアの取手に指をかけ体を繋げて背中のゴムで後ろに引っぱられながらも踵をあげます。「ここ」の感覚が身につけば踵をあげずに足の指で大地をしっかりと掴み重心を数ミリ前に持ってきます。今までは、相手を上げようとか下げようとか、手元の操作に感けて腕に余計な力が入ったり、腕だけでその関係性を作ろうとしてしまいがちだったのですが、接触した相手の力を借りながら背中と足を使って自分自身に合気をかければ、結果的に相手にも合気がかかります。合気の妙技の秘訣が「ここ」に隠されているのかなと思う次第です。