「これくらいでいいですか?」とか「まだ弱いですか?」「もっとやったほうがいいですよね?」
そう質問された時、たいていやりすぎてると感じます。
最近塾長は風船を例えにつかわれています。そのくらいの圧で良いということです。
その風船は、力みが入るとシャボン玉のように消えてしまうようです。
シャボン玉に触れて、そのゴム感、跳ね返りを感ずるくらいの繊細さを養うことが必要なのかもしれません。
byたけぞう
「これくらいでいいですか?」とか「まだ弱いですか?」「もっとやったほうがいいですよね?」
そう質問された時、たいていやりすぎてると感じます。
最近塾長は風船を例えにつかわれています。そのくらいの圧で良いということです。
その風船は、力みが入るとシャボン玉のように消えてしまうようです。
シャボン玉に触れて、そのゴム感、跳ね返りを感ずるくらいの繊細さを養うことが必要なのかもしれません。
byたけぞう
最近すこし合気がわかりかけてきた。合気が出来るわけではなく、合気にいたる練功の仕方がわかってきたというのが正しいかな。
まだ先は長い、簡単にはつかめない。とんでもないことに首を突っ込んでしまったというのが正直な感想。
言い換えれば、死ぬまでずっと愉しめる道楽にはまったということでもある。
たまに、知り合いに合気を掛けてほしいと言われるが
できるだけ丁寧にお断りしている。
まだまだ、そんなことは滅相もないことである。
byたけぞう
仕事で、金属材料を扱う。
丸い棒状のものや、平たく棒の様に長いもの。大体5メートル位のものを必要に応じて、切断するのだ。
この時、不思議におもうことがある。長い状態のときは、太さにもよるが、結構撓る。こんな硬い金属がバネ感があるというか、柔らかさがある。
短く切ったものは、全く撓らない。柔らかさは感じられない。
ふと、考えたのはカラダも一緒かなと。カラダを手から足まで、ひとつに繋いで長いものとして使えば、弾力があり、前腕のみで短く使えば硬くて弾力はでない。
以前は、体をひとつにして使えという言葉を、固めて使うことと捉えていたが、それだけではなく、カラダをしなやかに使うコツを伝えていたのかもと感じた。
合気を武術に使うには、強靱なカラダがいるのだろう。(強靱とはつよくしなやかということ。)
byたけぞう
重要な事なので、
お伝えしたいと思います。
塾生の中では、私は比較的出来ている方だと認識されているようですが、実はそうではないのです。
私の場合は、自分の中にゴム感覚が乏しいので相手の方のゴム感覚に依存して合気をかけています。
ですから、相手の方にゴム感覚が乏しい、すなわち合気のカラダが出来ていない場合にはかけられないのです。
相手が合気のカラダで無くても、こちらに合気のカラダがあれば、かけれるわけですが…
私が出来ているのは、一番大切な合気のカラダではなく、テクニック的な部分、合気の原理を幾分か理解しているだけです。
喩えてみるなら、テクノロジーはあるけれどエネルギーが無い状態です、想像してみて下さい。
素晴らしいクルマが有ったとしても、電気もガソリンもエネルギーが全くなければ動かす事は出来ません。
幸い合気は、どちらかにエネルギーがあれば、それを使う事が出来ます。
どちらにもゴム感覚というエネルギーがなければ、何も起こらず徒に時が流れるだけです。
今の私の課題は、自らの中にエネルギーを発生させる、すなわち『合気のカラダ』を養っていくということになります。
byたけぞう
合気の習得が難しいのは、感覚の罠があるからと思います。
練功塾の合気の特徴は、ゴムのような感覚を使うことにありますが、このゴム感覚を掴むところに一つの罠というか落とし穴があります。
輪ゴムを引っ張った時に感じる感覚を全身に波及させるわけですがこれがなかなかの曲者です。
輪ゴムを引くと輪ゴムには戻ろうとする力が発生します。引いている手にその力は感じれるのですが、大概この手の感覚を全身に波及させると何故か力感いっぱいになります。
手を通して、ゴムの張力を感じながらも手や腕の筋肉は収縮しています。この収縮している感覚をゴム感と錯覚して全身に波及させてしまうと相手からは「硬いですよ」「力入ってますよ」と指摘を受けることになります。
本来は自分自身が輪ゴムになるべきところ、ゴムではなく【引っ張っている手】になってしまっているのです。
相手から「力入ってますよ」「筋収縮してますよ」と指摘されても自分としてはゴムの張力は感じているので、なかなか修正出来ないものです。
ゴムを引く手、腕には意思、意図があります。輪ゴム自体には意思も意図もありません。
意図を相手に感じさせては、合気は出来ないようです。意図のない輪ゴムに自分が成り切ることが必要に思われます。
云うのは簡単ですが、なかなかクリアするのは難しい部分です。