神谷の呟き

神谷の呟き 豊かな視点

年度末…。
12月は師匠(僧侶?)が走り回るほど忙しいと言われるが、私としては年度末の今の方が慌ただしい。
途中書きの文もあるが拙速にアップするにはもったいないテーマばかり。考えをまとめる時間がないのが正直なところ。きちんと内容をまとめてから呟きたい(もはや呟きとよばない??)。そうこうするうちに、次に気になる内容が出現してきて、温めていた文章のストックは風化して逝くはいつものこと。

合気練功は…知らなくても生きていける。
知っていればより豊かな視点がもてる。
知らずにいくのはとてももったいないこと。

今回は私情に尽きてしまったが、こう言うのが呟きかも(ぼやきとも言う?)。
呟く…「小さい声でひとりごとを言う。ぶつぶつと―・く」デジタル大辞泉(小学館)

わたくしついでに、私の仕事の話。配慮に配慮を重ねて処理させていただいたが、ヘンなところで取りこぼしがないことを切に祈る次第。

神谷の呟き 何も足さない、何も引かない。

「何も足さない、何も引かない…」サントリーのシングルモルトウイスキーの名キャッチコピーで、あまりにも有名。本当に何も足し引きしていないのか私にはわからないが、純粋な感じを醸し出す言葉として大成功している。現代人の理性脳を刺激する電子機器については足して加えて多機能をうたい文句にし、感性脳をターゲットにしているものにはピュアさを謳っているように思う。

合気練功で腕から体幹部への操作を処理するとき、「相手の脇を締める筋力が出たら完了。」であると塾長はいう。その最低限が上へ圧を掛けて、皮膚の程度で重心をちょっと引き出す。
腕で身体を支えなくてはならない状況が予測される刺激に対して、腕を体幹に繋げる反応が出るものと思われる。個々人の反応によって力が入るヒトはすぐに繋がるが、ゆるい人はじっくり伝わり繋がっていく。この間、自分は最低限、足裏からの上への圧は生じさせ続けねばならないが、足が辛くなると腕(肘)を曲げて横着に代替えしようとする。腕で行ったものは染み渡っていかない。やはりインスタントはそれなりの反応か。ならば足でと踵を浮かすと「背伸びすると方向が変わる」とのご指摘…。
繋がっていこうとする反応に対して、操作感覚に物足りずに腕の筋力を足していくと、途端に反応されて力でぶつかる。十分に美味しい老舗の一杯にさらに調味料をぶっかけていくかの如く。
前足底への重心の引き出しが不十分?と感じても腕で引いてしまう。よく院生に言われる。「もう十分だって」

《 必要最低限の要素を意念で行って、それ以上は何も足さない、腕で引かない。》

飲酒は特に嫌いではない。特に疲れたときは発泡を伴う飲み物より、茶色い液体を少量クイッといただいて気絶するのが心地よい。最近の飲み物はいろいろと足し加えて安価にしているようであるが、とりあえず飲めれば良いというものでは起床時に頭がヘンに重たいことに気がついた。たぶん何かしら余分に足し引きされてできているものなのだろう。

神谷の呟き ほどよく枯れていきたひ

ドイツの心理学者:エルンスト・ウェーバーは刺激の変化を感じ取る実験で「ウェーバーの法則」(1834) なるものを発見している。例えば100gの錘を手にのせて、少しずつ錘を重くしていき110gになったときに初めて「重くなった」と感じるヒトは、200gの錘で始めた時は220gにならないと「重くなった」とは感じない。210gでは違いを感じられないのである。この法則は重さだけでなく、明るさや音、匂い、味、寒暖、時間、金銭感覚などにも成り立つそうだから、よほど謙虚に最小の感覚を大事に磨いていかねばならない。途中で大きな刺激を受けると練功が振り出しに戻ってしまいかねない。

1年も練功を続けて、技をかける方は相変わらずの気分だが、かけられる時の分析は緻密になってきたと思っている。ある時、2系の受けを務めている時に感じたことがあった。相手の方は十分に力を抜いて2系の繋がりを作ろうとしているのだが、何だか…耐える腕の力を抜きたくなってしまう。腕の力が抜きたくなるということは繋がりの操作圧が大きすぎることが原因であることが多いのだが、相手は力を入れずにトンっと腕をのっけているだけの様子。でも繋がりを作るためにはこちらが協力して頑張らないといけない感じであった。
ふと気づいた。この相手の腕が重いのである。空手や柔術で鍛え上げられた(前脚のような・失礼)腕の重さが気になっているのであった。力を入れてはいけないが、重みを掛け過ぎてはいけない。そんなことを私は感じていたようなのだ。

若かりし頃、太い腕に憧れて拳立て(拳で行う腕立て伏せ)を繰り返したものだが、合気練功ではその腕の太さも障壁になりかねないのであろうか。そういえば達人の逸話は「吹けば飛ぶような、枯れ枝のような…老人」なんて記述が頭に浮かぶ。東京の合気練功倶楽部の方でも武道経験のない方やあまり力がない方のほうが、すんなりと合気の繋がりに入られたりする。

もしこの仮説が必要事項であるならば、ここからは脂物を控えて、うまい具合に枯れていく練功を編み出すほかない((笑))。

神谷の呟き なまくら刀は切れ味が鋭い 可能? or 不可能?

合気の繋がりのためにはまず自分の受容感覚を磨く必要がある。合気練功の技を受けても何が行われたかを感じることができなければ、「何で?不思議?」で終わってしまう。まずは足の裏に、または皮膚、さらに背骨に意識を持っていって感じる脳を鍛えないと始められない。合気練功塾ではその操作感覚を理解してもらうために、あえて大きめの操作(圧)で操作を行って必要事項を確認し、そこから操作を細くしていく手順を踏む。
合気練功の操作は相手の意識に上らないレベルで相手の姿勢保持に影響をするが、雑な圧の高い操作では身体感覚に鋭い方にキャッチされて対応・変化をされることが多い。よって相手の閾値に達しないように「そオッと」行うのである(でも、姿勢保持の神経の閾値には達してところが激難)。操作を細くしていく必要性はそこにあると理解している。

過去の失敗談であるが、塾長のお宅へ個人レッスンに通っていたときに塾長の説明に対して何となく抗うような動きをしたことがあった。
「そんなことしてたら解らんよ。」塾長に言われた。そのときはその言葉の真意が良く理解ができず、単に「こうしてみたらどうなるのだろう?」程度の好奇心?半分無意識的な動きだったと思う。私に慣れが生じていたのだとも思う。
今では言葉の意味がよく分かる。操作感覚を伝えようとして、私が感じられるあえて大きめの操作に対して、私が変化したのであるから、学ぶ側の姿勢として失礼極まりないことであった。

切れ味鋭く研ぎ上げた刃物をあえてなまくら刀にして、また瞬時に切れ味を戻す。なんてことができるのだろうか。少なくとも最近の塾長は集中講座の説明の時にやっている。塾長の中のある幅でやられているのだろうと思うが、私にそんな器用なことをやれる自信はない。感覚を研ぎ上げる修行の途中であえて鈍らせる作業が面倒くさいと感じたら、塾長は指導をやめてしまうかもしれない。とても心配な事である。

合気練功 基本〇系というもの

基本○系というもの

合気練功塾には基本1系~基本5系という練功課題がある。基本1系は相手が上へ上がる、基本2系が下へなど、方向によって分けられている。方向が決まっていた方が練習しやすいし説明しやすいためであるが、これは初めのうちだけである。

合気の技は基本的に相手の力を使って動きが作られる事になるので、相手が力を発揮しないと基本○系にはならない。
基本1系を例にするといわゆる合気上げであるが、相手のカラダに上がっていく要素が発生していないと合気で上がっていかない(関節とか、重心移動で操作すれば上がると思うが、それは合気ではないと思う)。「相手が上がる」と言う現象だけにこだわると失敗して、上がらないことが多い。それは相手が上がらない・繋がらないカラダになってしまうからである。

例えが適当かは判らないが、空手などのいわゆる上受けは上段の突きに対して有効な受け方であるが、「上がらないカラダのヒトを上げてみろ」というのは中・下段の突きを上受けで受けてみろと要求しているような感じに思う。

では、本当に上がらない構えで挑んでくる人に対して、合気練功で上げることはできないのかというと、塾長はスッと上げてしまう。どうやら脊柱で頭部を支えている状態であるならば不可能ではないようだ。

完全に上がらないように構えているカラダには上がるように要素を作っていかねばならない訳だが、相手の受容を可能とする閾値の超えた操作では相手はさらに上がらないように変化をしていく。その辺りがソフトタッチ(の虚?)へと繋げていかなくてはならない部分だろう。今後、合気のカラダのゴム感覚がとても重要となるだろう。