神谷の雑記

背骨ゆらしのこと

合気の身体作りは背骨の柔軟性を高める背骨ゆらしからスタートする。練功塾でも研究会(少々端折るが)でも練習のはじめに必ず行う。もともとは気功の鍛錬法で、蛹、擺、捻、蠕などの難しい漢字で動きが示される。ただの準備運動程度に認識すればイージーな運動であるが、どの動きもそれぞれに細かい留意点があり学び始めの方はその要求をなかなか満たせない。合気の技は自分の身体をつなげて相手の重心を感じる訳だが、自分の身体がきちんとつながっているかを自覚できないと技が安定して成立しない。背骨ゆらしには自分の身体のコントロールと繊細な感覚を感じられる感性を磨く意味があり、背骨の一つ一つを動かす意識をずっと維持できれば合気の身体作りの成立にも近づくと思われる。

ヒトは24個の椎体を持っているが直立して前足が自由に使える分、体幹の動きは巧みでない。背骨は腸腰筋の起始部であり、いくつかの大きな筋が覆っているので本来は強力である。中国拳法の抖勁や靠勁は背骨の操作が含まれているものであろう。ヒトと同じサイズのワニやニシキヘビを思い出すととても押さえ込めたものではない。体幹部分がポテンシャルを秘めた部分であることは間違いないので、野生動物のように動ける背骨を磨いていこうと思う。

最近、背骨ゆらしで内部感覚へ意識を持っていくことが合気の原理につながることがジワッと解ってきた(これについてはもう少し纏まったら…)。また、背骨をよく動かして、身体が緩んでいるときの方が身体の感度は明らかに良く、ボゥ~とした気の感覚(振動?血流?インナーマッスルのつながり?熱感?なんと表現します?)も良好である。椎体の間を広げることで神経の通りが良くなるのかもしれない。これは健康増進。良いこと尽くめである。

10172017

推進力のこと

合気の原理Ⅱに「推進力」がある。私は相手からもらって支えていただいている力と思っている。外から見える現象を追っかけたときには必ず「推進力」が必要となる。武的な場面では、ほとんどは相手が力を使って攻撃してくるのでそれをいただければ自ずと推進力は生み出される。例えば、相手に腕を捕まれた状態から自分が上に上がっていく力を感じていれば相手は下に崩れ、合気上げのときは押さえ込まれる力をもらって自分は相手の足の間に沈み潜りこんでいく力を感じて「推進力」と思えばよいのだろう。難しいのは合気上げをしようと思えば普通は持ち上げる力が入ること、合気下げでは下に押さえてやろうとする力が入ることである。合気の原理ではむしろ逆で、相手に上がって欲しければ自分が沈む力を感じ続けられれば技となる。ここに脳みその使い方の転換点があると思う。

推進力を感じていても自分の身体がきちんと繋がっていないと外から見える現象として技にならない。つまり自分のからだがきちんとつながっている方の技がかかるので、きちんと自分の「足裏」を感じ、ゴムの感覚で身体をつなげて、相手の「足裏」を感じて重心をちょっと引き出してやると推進力は効果を発揮する。推進力は解るととても面白いモノで、オンライン講座で示している動画のように、指一本でも相手を動かせたりする。通常ではあり得ないと思われるが、要はご自身の力で動いていただいているだけである。

最近、合気上げを2人で練習をしているときに受けの立場で、あえて上がっていく推進力を自分で受けるようにポジションをつくることがある。穏やかな練習をするとき人の腕の掴み方はさまざまで、カツンと繋がるところまでのあそびが大きいと現象を起こすための条件が解らなくなる(私は毎度迷宮入りで苦労しました)。ともに楽しく上達するために、まずは階段を明確にしてちょうど良い条件をまでを受けでつくり、必要条件を体感してもらう。その後、条件を取りが整えられる練習をすれば上達が早いように思うのだ。さらに、こちらが技にかかる条件を整えるということは、相手の入力を感じられる感性を磨くことになる。繋がりをつくるということは重心の移動によってはこちらが「取り」になれるということである。負けて勝つ脳みその転換点である。その先の受けも取りもないつり合った状態が心地よい合気なのだと思う。

足裏感覚のこと

合気の原理Ⅰに「足裏感覚」かある。自分の足裏と相手の足裏をつなげるということだが、これが基本。一人でなら自分の足の裏のどこに体重が乗っているかは、前足底、踵、足刀部ぐらいは感じられると思う。これを2人練習するときも感じながら練習する。相手と掌を重ねたり、手首を握られたりしても足の裏を感じていなくてはならない。触れられている腕に意識が行くので足のことなど忘れてしまいがちだがそれでは合気の技はかからない。

「合気のカラダ」のゴムの感覚づくりに慣れてくると、自分の前足底はいつもつなげられるようになる。自分の持っているセンサーの8割方を相手の足の重心を感じることに使えるようになる。相手の重心を、安定を欠くちょっと手前に追い込むのだが、追い込みすぎると一歩次がれて安定されてしまう。傘を手の平の上で立たせて倒さない大道芸のように ちょい手前に行くようにセンサーを駆使するのだ。相手の足の裏を動かせたらまずは一緒に歩く・一緒に座ることを練習する。そして相手のみ動いてもらえるようにしていく。手首を握られた状態から相手をつま先立たせたら「合気上げ」と言うのだろう。

…でも、相手を上げよう。相手を動かそうと思った瞬間に足の裏の意識は希薄になる。そこが難しい。また、相手に力で押されたりすると思わず力で反応してしまう。私の場合、屈筋が働きやすい方向からの入力に対しては、ほぼ無意識で腕力が入ってしまう。逆だ。無意識にただ足をつなげていていれば良いのだが…。身体が悪いのではない、脳の使い方が悪いのだろう。

 

追記 最近、歩くこと(運歩)を意識し始めた。一つは医者から言われて高血圧対策。もう一つは、居着かないように重心を意識して、足裏感覚を消さないように歩く練習。スタスタ歩いてはできないので、たぶん高血圧対策にはなっていない。

感覚のこと その2

前回、手のひらや指先の感覚について触れた。両の指と指の間に何かしらゴムのような弾力性を感じながら引いたり近づけたりする。あるいは両の手のひら間に磁石の反発のような抵抗を感じたりする。その感覚を頼りに腕や胸・背中にも同様な粘りや抵抗感や空気のまとわりつく感じを楽しむ。こんなスタートで合気の身体をつくり、自分の感覚を磨いていく。私の場合、最初はスッカスカで、狐に摘まれた感で、感じもしていないのに、「なんだか有るような…。」なんて答えていた。回を重ねてあるときはっきりと手のひらの間に磁石の反発を感じられるようになった。

戯れにチョイと高校生にやらせてみたことがある。大半は私と同様で気を遣って何か感じたような返答をするが、いきなり磁石の反発を感じてしまって気味悪がる者もいた。体験に来られた方でも初回で感じとられる方とそうでない方がいらっしゃる。

思うに「合気」でなくとも、今までの経験で微妙な加減を感じてこられた方はその神経が感覚を感じさせるのかもしれない。私のように力任せできた者はまず神経作りからなのだろう。ピアノの鍵盤を弾くとき、物理的に押せば音は出るがその力の加え方で音色が変化する。その微細な力の加え方と同じとたとえることができようか。職人技の習得に近い取り組みである。

合気練功 感覚のこと

スタートとして手のひらや指の感覚を意識することから練習を始める。最初はその感覚が本当に(体の外に何かしらが)生じているのか、その感覚を自分で作り出しているだけなのか不安であった。一般的にありもしないことが見えたり感じたりすることを、気の迷い・錯覚・幻覚・オカルトとか、マイナス的にとらえるのが科学的である。果たしてこれは良いのか?

感覚とはすべて人体の内面の問題であり、脳が作り出すものである。そこに何かが「有る」or 「無い」ではなく、自分の感覚を研ぎ澄ます練習・訓練だと気がついた。神経の樹状突起が多くの受容体につながっていること、アウトプットは多くの神経単位がそれぞれの筋につながることで繊細な動きが可能になる。微妙な操作で可能となる「合気の現象」のためのカラダ作りである。