神谷の雑記

神谷の呟き064  合気の原理は慣性の法則にあり?!

塾長の説明でよく出るフレーズ
「相手が力を入れて頑張っていても関係なく、相手に反応が出る程度の接触で十分。」
この反応とは何かを考えてみる。

我々の姿勢保持は無意識で自律的である。誰かに押される、ぶつかられるといったことがあっても大人は倒れない。ましてや格闘技をしようなどと思う人は特にバランスが良い。バランスをとる機能が成長しきってない子供、足腰の機能に瑕疵がある、衰えてきているなどは別とする。ヒトの構造は重たい頭部が高いところにあるため、とにかく倒れないようにする仕組みがしっかりしている。それ故、ちょっとやそっとの外圧に対していちいち感じていないのが普通である。
山手線の混雑で確認してみる。よほどゆったりと立っている人でも、ジわっとある程度まで追い込むと、倒れないように何処かの筋肉に力が入る。これが足まで繋がったということかと思う。特段意識されている感はないから、接触点から力の入った場所まで「裏の力」が及んだという表現でいいのだろうか。自分の感覚でも確認してみる。カバン越しでも圧を足に受けることができるため、物を通じて繋がることは可能ということだ。

新幹線こだま号の発車、停止の回数は「のぞみ号」より多い。後ろの方に「ちょっとシートを倒していいですか?」と断って、シートにゆったりと座る。名古屋から3つめの停車ぐらいの時に気付いた。ゆったりと座っていても発車時の動きにカラダが反応している。止まり続けようとする慣性に対して、車両について行こうとする動きだ。意識をしなければ気付くはずもない自分のカラダの動き。この程度が十分な反応なのだろう。

停車時、発車時の反応は確認ができた。次はのぞみ号の加速と減速を受容して、感覚を磨いてみようと思う。

神谷の呟き 豊かな視点

年度末…。
12月は師匠(僧侶?)が走り回るほど忙しいと言われるが、私としては年度末の今の方が慌ただしい。
途中書きの文もあるが拙速にアップするにはもったいないテーマばかり。考えをまとめる時間がないのが正直なところ。きちんと内容をまとめてから呟きたい(もはや呟きとよばない??)。そうこうするうちに、次に気になる内容が出現してきて、温めていた文章のストックは風化して逝くはいつものこと。

合気練功は…知らなくても生きていける。
知っていればより豊かな視点がもてる。
知らずにいくのはとてももったいないこと。

今回は私情に尽きてしまったが、こう言うのが呟きかも(ぼやきとも言う?)。
呟く…「小さい声でひとりごとを言う。ぶつぶつと―・く」デジタル大辞泉(小学館)

わたくしついでに、私の仕事の話。配慮に配慮を重ねて処理させていただいたが、ヘンなところで取りこぼしがないことを切に祈る次第。

合気練功 カツンとくるところ

合気練功の動画をご覧になると塾長から「カツンとくるところ」という言葉が良く出ていることにお気づきになると思う。このカツンとくるところというのは合気の繋がりではMustの部分である。最近の練功塾では合気の繋がりを3つの段階で練習しているのだが、この「カツンと」が第1段階である。これが来ないと後は何をやっても空回りである。

さてこのカツンを別の表現で表すと、接触点を使って自分が前に行ける(下がれる)ところと言っていいと思う。間違いやすいのは自分勝手に前に動いてしまう動きで、接触点を使えていない場合である。相手と関係なく一生懸命前に出るのは、カンフー映画でよくある戦う前の構えにメチャメチャ頑張ってキレキレの動作を見せているだけのイメージだろうか。
接触点を使って前に行けると言うことは、全身で相手に合気に掛けられると言うことで、ヒトの重心が動くだけの繋がりが存在しているという状態と思われる。「先に合気にかかってしまう」はこのことであろう。この段階をクリアしたら以降の段階:背中の張りを持たせて、作用点が相手側に行くように手順を踏んでいく。

さて、「カツン」をつくるには原理の総動員が必要と思われる。
上方向の圧で相手の肩関節を参加させて、皮膚操作と、自分のカラダの不安定さで支えさせると相手が固まるような場面がある。私は掴まれている手首の皮膚の弾力性を使って(味わって)いくような、または相手の足からゴムを引っ張っていくような操作感覚で行っている。「カツン」の感覚は一度経験していただくと練功の足掛かりになるのだが、動画や文章では伝わりきらないと思っている。

恥ずかしながら自分の失敗例を報告させていただく(何かの参考になれば‥)。
今までの私は状況の変化で「あ、カツンがでた」と捉えていた。しかし、その変化が僅かだったりするとそれに気づけずに、まだカツンになっていないと、その後の操作を探ってしまう。「上の圧が足りていないのか。もう少し前に引き出さないといけないのか、はたまた自分が自立しているためなのか?」といろいろと行うのだが、どうもこれがいけない。もはやカツンときているのだからそれ以上の操作は余分である。やり過ぎを相手に知覚されて繋がりが切れてしまう。やはりカツンときている状況そのものを捉えられるようにならないといけないようだ。
自分が繋がりを求めて何かしようとする動作は、相手のつかんでいる力に対して操作圧が高い事が多い。自分が掛けられる側だとお解りになると思うが、この圧の不均衡は何かをされている感が否めない。サポートして繋がりたくても置いてきぼりにされているようで、繋がり感が希薄になるようだ。つまり、原理「同調」が必要と言うことであろう。

細かい話になるが、私が掴む側で握っている接触点が上がって行く動きが出てくると違和感を覚える。原因は相手の肘関節が曲がっていく動きなのだと思う。自分自身が「今一つだ」と感じる操作なのだが私も無意識にやってしまう動き。よく練習相手に指摘される。これが「カチンとくるところ」。もちろん要求を満たす動きが出来ていない自分に対してである。

同調について

合気の原理Ⅲに「同調」がある。個人的にはなかなか難しいと感じている。「同調」には複数の意味があり、留意点であり操法であり、現象名でもある。

まずは自分のカラダの事として背骨を起点とした統一体であること。腕や足の動きが背骨や骨盤と同調していなくてはならない。背骨揺らしの蠕動が相対でもできれば良いのであるが、おそらく体幹部分(背骨)から引っ張るゴム感覚を伴うことでより効果的に同調できる。
相手との接触点の圧を同圧にするという意味での同調。体の部分に力みがあってはつながった合気のカラダであるとは言えない。その力んでいる部分をゆるめてつながりやすい合気のカラダにしてしまう操法である。自分が合気のカラダであるので相手も自分も合気のカラダということで同圧である。逆もあり、力ないタラタラの体を姿勢保持の筋に作用することで合気のカラダとしてつなげていく(裏の力ですね)のも同調である。

集中講座でこのような現象があった。つながる練習を2時間ほど行い、つながる感覚をほぼ得ていただいたところで、塾長がそれぞれの受講者を直接触れずにゴム感覚で引いたのである。すると受講者は引く動作に同調して前重心になっていった。この場面だけを動画にするといよいよオカルトの世界であるが、つながる感覚で影響を受けた体は、その予備対応を小脳が学習して無意識に姿勢保持の反応が生じてしまうと考える。つながりやすいカラダになっていると言える。練功塾や研究会でたまにみられる光景でもある。

しかし、練功塾や研究会で練功を繰り返したヒトのカラダがつながりやすく、反応が生じやすいのは繰り返した学習の結果であるから理解に無理は感じないのだが、上記のようにまだ数回、数時間の練習の方々にも容易に反応が生じてしまうのはなぜなのだろうか。ヒトにとっての姿勢保持がセンシブで影響を受けやすいという答えも有りだが、本当に学習の結果なのだろうか。

ふとこんな事を思いついた。まだ私の娘が小さかった頃、娘は私に寄りかかったり、もたれかかったりしたものだった(今では近寄ってくることすら無いが‥)。子供の頃は何かに触れている事が安心なのだろう。大人になるにつれて自立して、他人に寄りかかることも無くなる。でも本能的にはちょっと寄りかかっていた方が快の感覚なのではないか。新しく学習習得されるのではなくもともとの動きが復活しているとしたらどうだろう。

武術の技は反射などの生得的な反応を利用しているものが沢山ある。修飾されていない反応や動きの中に探求すべきものが埋もれているかもしれない。もっとちゃんと子供達の動きを観察しておけば良かったかもしれない。

コヒツジの会について

お詫び:先週分が公開できておりませんでした。楽しみにされていた方々、申し訳ありませんでした。

月に一度、合気練功研究院の院生が集まって研究を行う会がある。練功塾での塾生の指導や体験レッスンに来られた方の対応を行う院生が、自身の感覚の確認や指導技術を高めるために始まったものと聞く。メンバーは動画に出演されている面々である。その会の通称を「仔羊の会」と言う。名称理由には諸説あり、合気がかかった時の足腰の様子が産まれたての仔羊のようである(只年を喰って足腰が弱っているだけ?)というものや、とても若者とは言えないオジサン古羊の集まり、合気の感覚を求めて「さまよえる仔羊」、合気の感覚がわからなくて「迷える仔羊」などがある。前振りが長くなったが、先日この会に晴れて参加できる許可をいただいた。

この文章を書き、オンライン講座のテロップを記すにあたって、合気の感覚や現象を解析・解説することを試みてきた。その結果、合気のかかった状態は同時に多数の要素を内包していなければならないということが解ってきた。ただし説明するときは全てを同時に言語化するのは不可能なので、どこかに視点を置く必要がある。例えば「足裏感覚」に視点を置けば「足の裏の意識を持ちましょう」ということになる(気付いてない頃の私にとっては、これだけでも重大なアドバイスであった)が、合気のかかった状態は「裏の力」も「推進力」も必ず存在しそれだけでは不十分。木の一本一本を説明しても森を説明したことにならないのと同じである。

さて、仔羊の会での練功はある程度の操作では許してもらえず、きちんと合気の要素がそろわないと現象として表れてくれない。何がいけないのか一つ一つ考えていると要素は入れ替わりに欠けて、結局訳が分からなくなる。一つ一つを分解するような科学的な解析では同時に表現しきれないのである。自分と相手に集中しているとかえって解らなくなる。所謂「悟る」に似たことが本当に必要なのかもしれない。ある程度の共通理解を持つ同レベルの者で合気のかかった状態を並行共視して、思い浮かんだ(感じた)ことを共有共感することも感覚の正しさを確認できる方法かもしれない。
練功する仲間を共に眺めることも大切と思ったしだい。

大人の高尚な趣味として取り組むに、「察しろ!感じろ!」では同レベルの身体操法を習得に至らないので言葉を尽くすわけである。塾長も研究会で不足を覚悟で「理屈をこねます」と前置くわけだ。

「仔羊の会」のもう一つの意味を思い出した。院生の皆さんは合気練功塾の中ではにこやかなオジサン羊であるが、外ではいろいろな技術やステイタスを持たれている方々である。言うなれば羊の皮を被った狼な人たちなのだが、しおらしく仔羊と称しているのである。そのような方々との楽しい出会いもこのプロジェクトの重要な魅力である。