内部感覚

合気練功 効果があったら意念です?

「それとって」我家で私がチョイチョイ言われる言葉である。「それって何だ?」
「ンッ!→」目線の先にはテレビのリモコン‥。情けなくも主語すら発するのが億劫らしい。しかも明らかに距離があなたの方が近いではないか!?…。
練功塾の皆様にはご理解いただけると思うのだが、私が幼少の頃はテレビにはリモコンという物はなかった。リモコンが登場してわざわざテレビ様の所まで出向くと言う煩わしさから解放されたことは革命的だったと思う。「余計な行動や動作を省くこと=便利=科学技術の発達」という図式が一般にスタートしたのだと思う。この流れはアイマーの定向進化説よろしくエスカレートしているように思えてならない。

話は変わる。
私も合気練功に興味を持つ皆様と同じように、いろいろな武術・武道に関する書物を読み漁った口である。その中の言葉で中国武術の「大展から緊奏に至る」や、ある剣術の「最大最小理論」に、もしかしたら関連するかもしれないニュアンスが塾長のレッスンに登場したので報告する。

合気練功の繋がりで相手のカラダがカツンと成ったところで、さらにゴム感覚で引いていくのだが、そのときのゴム感覚は合気のカラダ作りでいう四元・五元である。塾長曰く、とにかく全身で!最大限のゴムを引く感覚で「壁ごと引っ張る」「空間をかき混ぜる」くらいの壮大な意識の持ち方である。なかなか合気のカラダ作りと基本5系が結びつかなかったのだが、なるほどそのゴム感覚が相手に作用すれば「意念」といって良いわけだ。
しかし、外から見える動きは最小か、むしろ無い方がよい。もし外見上に動きがあると、ゴム感覚でつくったせっかくの張力が動きで消費されて相手を作用点とすることができないか、相手の関節が弛むことで繋がりが切れてしまう。よってカーテンとも繋がれるような細心の繊細さを伴って全身でブ~ンと引くのである。(オンライン動画の編集で最も悩ましいのが外から見えないこの内部感覚のはたらきで、これはもう体験・体感してもらうしかないと思っている。)合気練功も大きく動くエネルギーで状況をつくり、最大の効果を得るために外からは最小の動きとなる。「余計な動作は省かれ」て、その関係(繋がり)を減じることはないが、その状況を支える「技術」については最大の努力が払われていると言ったところだろうか。

冒頭の話のつづき。「ンッ!→」のあとの私の行動は、練習熱心にもゴム感覚で「ヨッコイショ」と腰を上げて「ハイよ…」とブツを手渡すである。これは相手の「ンッ→」という意念のオノマトペでゴムを引かれてコントロールされているのでしょうか?!

とある塾生の雑記 その4 「気感を移動させて遊ぶ」 

とある塾生の雑記 その4 「気感を移動させて遊ぶ」

手掌がジンジンとする内部感覚(以下、気感という)が出てきたら、次はこの気感を移動させる錬功法です。

両腕を目一杯横に広げ、肩と肘を少し落とし、両手掌を上に向けた体勢からスタートします。片方の腕を頭の高さまで挙げ、反対側の腕を腰の高さまで降ろします。この時、両目を閉じ感覚を研ぎ澄まし、上の腕は手掌から肩に血の気が引くような何かが流れる感覚を、下の腕は肩から手掌に向けて何かが流れ込むようなあるいはジンジンとした感覚を待ちます。何も感じなければ、ヤジロベエのようにゆっくりと交互に腕を上げ下げしながら(片側の)手→肘→肩→背骨→(対側の)肩→肘→手と順番に脱力させ、身体的補助をつけて脱力した時に出現する感覚の変化を追いかけていきます。

気感は非常に繊細なもので、力んでいると感じにくくなります。私自身もついつい肩に力が入ってしまい肩から背骨への感覚が上手く出ませんでした。このような時は、微妙に肩や肩甲骨を揺り動かして、皮膚と衣服が擦れるわずかな感覚を頼りに脳内イメージで感覚を増強させると良いと思います。気感はあくまでも内部感覚であり別に何かが出ている訳ではありませんが、このような繊細な感覚が身につけば、自分の体の状態はもちろんのこと、対峙している相手の体の状態も、そのわずかな接触面より読み取ることができるようになります。

合気練功塾では、準備運動として背骨揺らし体操をしますが、気感の移動ができるようになると背骨の揺れで体の力みが程よく取れ、じっくりと内観すれば気感が体全体に波及していきます。卑近な例で恐縮ですが、私はこの気感に体が包まれた「スーパーサイヤ人」状態から両手の気感を丸い球体にギュッと圧縮して「螺旋丸」を作るなどのイメージトレーニングをして遊んでいます。瞬時に気感が出せるようになると楽しいですよ。

合気のカラダで一人遊び?

少しの待ち時間。休憩時間。ふと気がつくと手のひらでゴム感覚をつくり、味わっている。これは私だけではなく塾生の皆さんもやられているようだ。合気練功塾の休憩時間でも喫煙組がタバコの煙をくゆらせながら、手は丸く合気の掌を作っているのをよく見る。これを練功熱心と表現するか、一人遊びと表現するか。
私が良く行っているゴム感覚遊びは、ゴム感覚を外へ向けて歩み出しを作ってみたり、抵抗感として味わって重心移動を試みたり、手を膝に乗せて皮膚の弾力性を確認して背骨へ伝えて丸めてみたり。皮膚のじんじんする感覚をカラダのどの辺りまで拡げていけるか操作をしてみたりしている。特段愉しいわけではないが無意識に始まっているのが実情。

ちょっと前になるが、練功の後で昼ご飯を摂ろうと塾長と駐車場を歩いているとき、2人とも腰から上は立禅状態の構えだったそうだ。たまたま近くのお店の中から我々を見かけた院生さん曰く、掌を内へ向けて丸く抱くような腕の形で歩いている姿ですぐに気がついたそうだ。店内からにこやかに手を振っていただいたのだが、傍目で奇妙な2人であったのだろうと想像する。

合気のゴム感覚を練功しているとき、基本的に気持ちの方向は自分の中である。背骨揺らしもそうだが、自分のカラダが動いていることを「感じる」脳味噌になっている。外の情報を受容して動かそうとする脳の使い方とは反対方向にあると思う。無意識で行っていると言うことは身体的に負担(嫌)ではないのだろう。むしろ内部へ意識を向けることで自律神経のバランスを取っているのではないかと考えている(単なる変な人ではないぞ!と、少々自己弁護)。また、「今」を味わっているという点でマインドフルネス似である。

少々古典になるがドイツのシュルツによる自律訓練法では、「重さ」が筋の弛緩、「温かさ」が心的緩和の催眠状態とされている。筋は神経支配によって収縮するので意識で筋が弛緩する部分が説明できないのだが、5元の練功で筋が弛緩して血行が良くなり、血流によって体温が運ばれてくる熱感というストーリーは成立する。内部感覚に集中することで外部への防衛や交感神経の支配は希薄となり心的緩和となるのだろう。物理的なストレス(食う・喰われる)が減少してはいるが、心的なストレスフルな現代社会において、ヨーガやマインドフルネスがもてはやされるのはある意味、必然のことなのかもしれない。
そんな展開も可能にするのが気匠庵の合気練功と考えている。

とある塾生の雑記 その2 「ゴム感覚(一元のカラダ)」

「ゴム感覚(一元のカラダ)」 

「合気練功のための修練体系」「合気のカラダ」の中に「身体内外のゴム感覚」というものがあります。一元のカラダ(1本のゴム感覚)の練功方法は非常にシンプルなもので、両手を胸前において両手の間隔を左右に広げる・縮める動き(開と合)だけです。しかしこの動きに合わせて、心を鎮め身体の力みをとり内部感覚のセンサー感度を徐々に高めていくととても不思議な感覚が出現してきます。

今回は、合気練功塾の重要なキーワードである「ゴム感覚(一元のカラダ)」について、この感覚を習得するまでの私自身のイメージの変遷(感覚の深化)を交えてお伝えします。

開:「磁石」⇨「納豆」⇨「餅」
私自身、一番最初に出現したものが、前回コラムでも書いたように磁石の斥力のような反発する力でした。両手掌を合わせて主連棒のようにゆっくりと回転させながら、両手間隔を少しずつ広げていくと手掌全体に納豆が糸を引くような粘り気をわずかに感じるようになりました。距離にして数センチほどでしたが、その感覚を頼りに練功を続けていくと、両手間の距離を伸ばしてもこの感覚が途切れなくなりました。さらに数ヶ月位繰り返し練功していると、納豆のようなネバネバとした感覚がだんだんと餅のような強い粘りに変化し、手掌だけでなく体全体にも広がっていきました。粘性が強くなってくると体を大きく動かさなくても気感も一緒に出せるようになり、内部感覚をより強く感じるようになりました。さらに体のセンサーの感度がより高まった影響なのか、今まで感じたり意識したりしたことがないような体の中に柱のような筒のような軸みたいなものを漠然と感じ取ることができるようになりました。

合:「ゴム風船」⇨「ゴムボール」⇨「螺旋丸」
反対に、両手間隔を縮める場合は最初からうまく感覚が出なかったため、まず脳内でゴム風船を圧縮するイメージで練功を続けていくとゴム風船の弾力が徐々に強くなりゴムボールのような感覚に変わってきました。さらに半年ほど経過すると気感が丁度良い具合に出てきたのと相まって、ゴムボールというよりまるで少年漫画の「ナルト」に出てくる螺旋丸のような空気を圧縮した塊に変化しました。
一元のゴム感覚については、入塾してまだ間がない頃、塾長より「壁からのゴムを引っ張ってくる」「空間を引っ張ってくる」ということを教えてもらいましたが、最近になってその感覚が物凄くよくわかるようになりました。

一年間の練功で、わらしべ長者ではないけれども、内部感覚が随分コロコロと変わってきたのだなと、改めて感慨深く思うのと同時にこれからこの感覚がまたどのように変化するのか、自分でも非常に楽しみです。個々人の内部感覚は千差万別であり絶対的なものではありませんが、言葉の持つイメージ力には物凄いパワーがあり、まさにこのイメージこそが要訣なのではないかという気がしますので、練功の際の一つの参考にしてみて下さい。

合気練功の功夫(工夫)について

日曜日に行われる練功塾は、最初の一時間は院生が輪番制で前に立ち塾生の練功のリードを行っている。そこで院生のそれぞれの工夫を「奥義伝授」などと笑って指導しているのだが、それぞれの感じ方や工夫がいろいろとあって参考になる。

ある院生さんの案内に、自分の足裏感覚を留意するために500円玉を足の母指球で踏んでいる感じで意識すると良いとあった。「なるほど!いい工夫だ。」他の院生さんは「じゃあ、俺は100円玉。」、「じゃあ10円玉」と金額ではなくサイズを小さく競っていき、でも最終的に一万円札を挟んで破らないけど逃さないに落ち着いた。確かに昔の剣豪の逸話に濡れた半紙を踏んで破らないというものがあったなと思った次第。

「合気は脳をハッキングすることで行う関節技である」という理解の仕方。
ある院生の案内で、ゴム感覚は関節が伸びることで、伸長する関節の弾力性として解釈するとどうだろうかというものがあった。従って人差し指を握られたときは中手骨、手根骨、肘、肩と多数の関節の弾力性を利用できるが、手首を握られたときは肘と肩関節のみの弾力性で制御を行うことになり、より繊細さが要求されるという説明であった。
塾長の説明では「関節が伸長した結果、それ以上伸長させまいと筋肉を収縮させる無意識の反応(つまり反射)は脳をハッキングすることの一つの要素でもある」であったので、ほぼ同意を得ているのかなと感じた。
確かに手首を掴まれると相手の力を感じてしまい、こちらも力みが出てしまう。練功塾では力をぶつけないは当然の条件であるので、これはクリアしているとして、手首を掴まれたときの合気のカラダ(弾力性)として感じとると確かに少し物足りない。指を握られて相手を操作するのは力の世界ではありえないが、合気練功ではむしろこの方が分かりやすい。自分と相手の関節を巧みに操作する事が合気練功の技の一部であるということで「関節技」でもある。関節が増えることで動きを生み出す要素が増えるので無意識的に繋がりつくられるが、関節数が減ると大きな筋肉の動きで参入しやすく、精緻に操作しないと力がぶつかるということであろう。
通常の生活では何かしてやろうと思うから力むのだが、これを合気練功では「我が出た」とか「色気が出た」と表現していた。合気の繋がりは互いに動きが生じている状況だと私は感じているので、力がぶつかって弾力性がない状態では、相手の力で動いてもらえる状況は消失する。塾長はこの動きの事を「流れ」と表現して、ぶつかっている状況を流れがないと言っているのだと思う。

合気練功を技と思えば、何かしようと意識が出るし、一度の経験でテクニックとして盗むこととも可能であろう。しかし練功は感覚のトレーニングで、だんだんと感覚が鋭くなっていく(積みあがる)と解釈すれば功夫であり、継続することで意味が生じてくるのであると私は思う。