合気練功総論

合気練功 調合‥、錬金術師のようだ

合気練功をスタートして1年が経とうとしている。いろいろなことがあったが、表題が私の現在の練功イメージである。
合気練功塾では塾長が合気の感覚をいろいろな表現やパターンを提示して、多角的に説明されている。一つの形をわかりやすく示したときに、そこには目をつぶらなくてはならない不足した原理があることを、今は何となく気づけるようになってきた。塾長は説明上、やや大げさに表現されているが、それは必要となる身体操作や受容するセンスを伝えるためには必要なものである。真似てみないと体得できないのが操作感覚である。真似してみるとそれぞれが難しく、今までの動きや感覚を捨てるところか始めなくてはならない。それぞれが大変なのだけれど、それらは通過点。
悩ましい(嬉しい?)のは、合気練功(塾長)自体が進歩して変化して行っている点もある。
そのときはその解釈でOKだったものが、次の段階にシフトしていることが間々ある。一般公開やオンライン動画の過去のモノは塾長目線では、もはや…。と言うこともある。この不意にやってくるイノベーションはすぐには理解できない。

以前にも述べたことだが、合気の原理は合気の繋がりを確認するための視点のようなものである。原理の1から5に至って、高等テクニックになっていくイメージを抱かれている方は多いと想像する。私もいろいろなケースに対処するためのテクニックのように思っていた時がある。院生になり合気の原理は5つとも揃わないと合気の繋がりはできないのだと思うようになった。しかも原理の配合を調整していくことも必要なようだ。各パーツの関連を塩梅良く調整するのは各人の練功だと自分は考えている。それぞれの練功の狭間を分析するのは楽しいのだがエネルギーが要る。自分がしっくりときていたモノですら突出すればアンバランスである。

塾長もいろいろとお考えのようで、原理全てを揃えていくことが上達の近道なのか、特に必要となる感覚を捉えてしまった方が早いのか、もっとストンとわかる方法はないのか日々考えているようだ(それ以上に、今までの操作で満足できていない部分の解明にもエネルギーを使いまくっていることも添えておく)。

理想的な「繋がる」とは相手に知覚されない「虚」の状態であると思う。武術的に行うのならば、知覚されずにほいほいと繋げてしまうのが良いと思われる。相手に知覚されると言うことは相手に対処される可能性が高くなり、現象として満足するモノを得られないからだ。かといって、塾生が必要な条件を理解できていない状態で練功が続くのは求めるところではないはず。練功塾の理念は振れておらず、互いの上達を喜ぶことを目指している。

追記:練功時に「合気の原理の配合を…。」と試みるが、塾長や院生からいろいろとゴソゴソと動かしすぎであると指摘を受けた。理想的な自動運転になっていないのかなとも思う。まだまだ未熟、こんなところが今の私の練功である。

合気練功 転換.について

7月7日は被害が出るほどの記録的な大雨で残念ながら天の川は拝めなかった。科学が発展しても自然の力を凌駕することは無いだろう。昔は地球が真ん中のプトレマイオス天動説が一般的な捉え方だった時代がある。たびたび目にする絶対的な大地を中心と思ったかどうはわからないが、今はコペルニクスが提唱した地動説で地球が太陽の周りを周回していることは常識のこととなっている。これにならって、物事の捉え方が180度変わってしまう事を「コペルニクス的転換」と表現している。

合気練功にはいくつものコペルニクス的転換が存在している。
相手の重心を捉えるためには、半分相手に委ねた不安定さを内包するカラダで2人の均衡を持つ。不安定が肝心とはコペ.転換ではないだろうか。太極拳も「捨己従人」という、相手と流れに沿う要訣があるようだが、重心操作についても内包している表現なのだろうか?

武道では居着かないようにしなさいと言われる。蹴りを放とうものならば蹌踉めくことすら無いようにと、不動の足腰が大事と信じて鍛えて安定感を増してきた。武道経験者(でなくとも大人)はまず間違いなく不安定を作ることを無意識に避ける。しかし、合気練功ではこの不安定がないと繋がれない。相手の力を使うどころか導き出すこともできない。

原理2の推進力を生み出すときは、「押しているのだけれども押されている感覚」もしくは「引いているけど引っ張られている感覚」と感覚を転換する。物理の作用反作用の法則では当然なのだが、日常生活では受容できていないことがほとんどだ。

基本5系を練習すると、つい相手を「上げる」、「下げる」、「回す」と相手を何とかしようと接触点を意識してしまう。合気練功の技術は基本的に相手の出した力で相手の本体が動く現象が生じるものであるので、接触しているところを意識せず接触点から離れた体幹部を作用点とする。もちろんきちんと繋がった上で相手の足を捉えてからの事であるが、作用点を転換させた操作感覚を練功する。

いちいちコペルニクス的なのだからその捉え方が馴染むまでには時間とエネルギーがいる。個人レッスンに通っていたときに一度に頂いた情報量が多すぎて目眩がしたことがある。でも、そのあたりから何か新しい視点が開けたように思えている.

合気練功 アウトプットについて

合気練功をスタートして約8カ月がたった。今では「院生」という肩書もいただけて、練功を楽しめるようになった(まだまだマヨエルコヒツジですが。)。ここに至る練功は約半年間、毎日、気匠庵を訪れて松原塾長から集中的にご指導いただいたことが大きいと思う。しかし、理解を深めるに大きな効果があったのはオンライン講座の動画編集とこのブログの存在であろう。

合気の原理1~5は武術的な技のように取られやすいが、今の私の解釈は感覚の感じ方であると思っている。感覚モノは「習うより、慣れよ」の部分があるので、あまり色々と考えていると結局何かが抜けてしまって「ちょっと違う…」となってしまう。考える事と感じる事は別物であるのだが、考えた結果感じられなかったら、「う~む、できない…」となりかねない。先日の練功塾でも塾長から「今この場で理屈を考えるより感覚的にできるようになった方が早い」との発言もあった。

ヒトによっては理屈で腑に落とさないと体現しにくい方もいる。また、ある程度の感覚が身についてくるとそれぞれのバランスが気になってくる。そのときに感覚を理屈で理解しておく必要が(少なくとも私には)あった。以前にも書いたことがあるが、繋がるための要素は複数あり、何かが希薄になるとつながりが不十分になることが多い。そんな時、私は頭の中で「感覚の指さし確認」を行った。予め自分の感覚を整理整頓して理解しておいたので、自分の陥っている状況を客観的に感じる事ができたのだと思う。
塾長のようにフロンティアで開拓(開発?)していく場面には、理屈より感覚が重要かもしれない。感覚のトレースができるセンシブルな方は体現可能であろう。しかし、教える、伝える、習うという文化の共有を図るときは言語化が必要になる。

練功塾の塾生さん(研究生さん)に、毎週、松原塾長の気匠庵に出向き個人レッスンで練功を積まれている方がいらっしゃる。2人おみえになるのだが、この度ご自身の練功を深めるため、このブログでのアウトプットを試みられることになった。当面、隔週で月2回は塾生さんのアウトプットにさせていただく予定。
私と、2人の塾生さんのそれぞれ異なる感覚とステージの言語化となるので、多様性が拡大する。共通項を探っていただくと納得していただける部分が増えるかもしれない。多様なニーズにマッチするものと楽しみにしている。

合気練功倶楽部: 倶(共)に楽しむ部屋について

先日、3連続の東京集中講座の最終回が行われ、今回も参加された受講者の方々と楽しく練功することができた(打ち上げの会では歓待を受けました。本当にありがとうございました)。月1回、合計3回の講座であそこまで感覚を得ていらっしゃる状況に少々驚きを、そして合気練功に対する熱意に敬意を感じた。聞くところによると自主的に練習会を行って功を積んできたとのこと。素晴らしい!

やはり合気練功の胆は「感覚」である。アスリートが練習を怠たり、試合から遠ざかると勝負勘が損なわれるが、それと同じように絶えず感覚を意識して磨いていかないと合気練功の勘どころは鈍る。鈍ればやはり思うようにいかなくなる。定期的に練功して感覚の維持に努めて琢磨していないと、容易に振り出しに戻ってしまう(最近、足圧の技術に衰えを感じて焦っております…)。
以前、自分の仕事が忙しくて月に1,2度しか練功に顔を出さなかったとき、塾長から「もう少し間を詰めて集中してやればわかるようになるのだけどね…。」と言われたことが懐かしく思い出される。

また相手の個人差や異なった姿勢になった場合もその感覚は違ってくる。例えば相手の足が並行なのか、前後に開いているのかだけでもカギとなる足裏まで到達する感覚は異なっている。一端、気付いてしまえば皆同じなのだが、私の場合は多様な状況の中で共通する感覚を拾い上げる練功が毎回必要である。様々な状況でも共通の感覚が得られるように繊細に日々の練功を行っている。

しかし、一つ一つを自分のカラダから拾い上げる作業が今は楽しい。合気練功を武術の技のカギのようにとらえていた時は「こんな途方もない技術修練…。」と凹んでいたこともあるが、それは自分の武術に合気練功を入れ込もうとするから大変と感じたのだ。
「感覚を耕し土壌作りをするのが合気練功である。良い土づくりができれば後はそこに何を植えようが自由である。」と塾長は言う。合気練功は単なる技ではなくいろいろな事のベースとなるカラダ作りと捉えるのが正しいと思う。

花か?野菜か?どんな作物を育てようかと思案するのも楽しい事である。良い土づくりできればこの先の良い収穫は期待できるが、土づくりそのものが楽しいのである。ともに良い感覚(耕作)をつくる場面を楽しみながら、「ああ、あなたは合気道なのね、あなたは太極拳、空手、気功、拳法、介護、美容、整体、~、~、~、人との関係にも使えるね。」などと、先々にロマンを感じる会話も乙だと思う。

合気練功の運用について

先日、集中講座があった。今回も熱い受講者の方々が集まって、午前・午後と合計6時間の講座であった。九州や大阪から2回目、3回目の方々、さらに遠く韓国から合気練功を体験するためだけに来日された方もいた。合気道、空手、太極拳などの経験者はもちろん、武道経験のない方や介護関係の方もいらっしゃった。せっかくのご縁であるので感覚が伝わるように精一杯させていただいた。

お相手させていただいて気づいたことは、足裏感覚の不確かさと複数のことを同時に行う困難さである。足裏感覚については接触点に加えた力がきちんと相手の足まで影響しているか、体勢の変化に対して足裏を取り続けることができているか、で苦労されていた。足裏を取れていても皮膚操作で手前に引くと下方向(足裏)への圧がなくなってしまったり、乗りかかって圧が強すぎたり(下への圧が強すぎても腕や体幹の受け止めになって、足裏への影響が減るように思う)。それぞれがちょうどよい塩梅で複数同時に行うことが難しい。「やはりそだね~」塾生も私もそこで苦労しています。感覚は少し間があくとぼやけてしまうし、感覚を維持した状態で操作を習熟していかなくてはならない。

私見であるが、合気練功の運用はざっくりと武道的には時間(間(ま))、施術や介護へは繊細さへの方向が練功としてあるように思った。合気練功を各種武道を補うパーツにするには合気の感覚や原理を整えて瞬間の接触を可能にする必要がある。演示としての状況設定はありかもしれないが、実際は静止した状態からのスタートはあまり考えられない。ちょっと応用は可能かもしれないがそれで自分が満足できるか。両方の成立条件を照らし合わせるぐらいならば、むしろ合気練功をベースとして再構築した方が早いような気もしてしまう。
故障を抱えている方やお年寄りのか弱く上がった腕を取って、筋肉のバランスを取り、カラダを繋げて動けるように施すには繊細な感覚が必要と思う。ついつい生の力で接してしまうが合気の繋がりは得られないだろう。

半年間に渡った集中個人レッスンが一区切りついた。合気の練功が何周練り込めたのか比較できる基準はないが、これから練功していくピースはある程度揃ったように思う。私も武道・武術からスタートした口なので達人の世界に憧憬がある。でも今更、最強への憧れはない。動機は各自にあると思うが、身体操法の可能性を切り開く合気練功は良いものであることは間違いないと思うし、練功はやっていて楽しい。何に使うにせよ練功を十分に練りこんでいくことで各方面へのスタートは切れそうだ。