合気練功総論

神谷の呟き 何も足さない、何も引かない。

「何も足さない、何も引かない…」サントリーのシングルモルトウイスキーの名キャッチコピーで、あまりにも有名。本当に何も足し引きしていないのか私にはわからないが、純粋な感じを醸し出す言葉として大成功している。現代人の理性脳を刺激する電子機器については足して加えて多機能をうたい文句にし、感性脳をターゲットにしているものにはピュアさを謳っているように思う。

合気練功で腕から体幹部への操作を処理するとき、「相手の脇を締める筋力が出たら完了。」であると塾長はいう。その最低限が上へ圧を掛けて、皮膚の程度で重心をちょっと引き出す。
腕で身体を支えなくてはならない状況が予測される刺激に対して、腕を体幹に繋げる反応が出るものと思われる。個々人の反応によって力が入るヒトはすぐに繋がるが、ゆるい人はじっくり伝わり繋がっていく。この間、自分は最低限、足裏からの上への圧は生じさせ続けねばならないが、足が辛くなると腕(肘)を曲げて横着に代替えしようとする。腕で行ったものは染み渡っていかない。やはりインスタントはそれなりの反応か。ならば足でと踵を浮かすと「背伸びすると方向が変わる」とのご指摘…。
繋がっていこうとする反応に対して、操作感覚に物足りずに腕の筋力を足していくと、途端に反応されて力でぶつかる。十分に美味しい老舗の一杯にさらに調味料をぶっかけていくかの如く。
前足底への重心の引き出しが不十分?と感じても腕で引いてしまう。よく院生に言われる。「もう十分だって」

《 必要最低限の要素を意念で行って、それ以上は何も足さない、腕で引かない。》

飲酒は特に嫌いではない。特に疲れたときは発泡を伴う飲み物より、茶色い液体を少量クイッといただいて気絶するのが心地よい。最近の飲み物はいろいろと足し加えて安価にしているようであるが、とりあえず飲めれば良いというものでは起床時に頭がヘンに重たいことに気がついた。たぶん何かしら余分に足し引きされてできているものなのだろう。

合気練功 共感力と多様性

合気練功の主眼は「相手と繋がる」ことであろう。
「繋がっている」状況を理解できればようやくそこに至る練功のスタートが切れる。
でもその繋がっている状況を感じる・理解するところから難しい。まずは繋がりのオン・オフから、大きな変化を感じてもらえればと思う。本当は案配良く・ちょうど良くの操作感覚でないと上手く繋がれないヒトが出てくるが、グレーゾーンの感覚はなかなか理解も実践も難しい。
練功塾では塾長の持つ「繋がるための勘所」を幾つもの表現でアドバイスされている。分かるヒトにだけ分かればよいと言うことではなく、皆さんに広くこの感覚を味わってもらいたいと言う考えからであろう。各言、このブログも「表現の多様性から気づいてもらうことができれば」を目的にスタートしたのであった。

先日、合気練功塾にブラジルの方が入会された。当日の朝、塾長から「神さん、相手を頼むね。」と言われた。ではまず背骨揺らしから…と説明を始めたのだが、日本語が通じにくい(通じないに近い)。まあ、今までもメキシコやカナダからの留学生を武術指導した経験もあるし脳味噌を切り替えてと、英単語の羅列の説明(けっして英語で説明したわけではないですよ)を開始したのだが、これがいけなかった。その方はスペイン語、ポルトガル語が母国語であり英語は分からないのである。英語でコミュニケーションをすれば…と最大限の努力のつもりだったのだが、私の先入観が相手にとって失礼な行為になってしまった。
「私にとっては、あなたはアジア人だ(と言っていたと思う)。」という言葉で気づかされた。
「分かりました。日本語でいきましょう。」
ひらがなとその方なりのローマ字筆談を交えて、「ねじり、NEDIRI」とか書きながら説明をおこなった。その方曰く、英語のローマ字ではないのでNEZIRI、NEJIRIではないのだそうだ。

共通言語を持っていてもその感覚を伝えることに苦労しているのに、感覚の説明をどうしようかと、内心不安を感じながら「足裏感覚」の練功を始めた。相手の触れている圧を足へ繋げる「これは腕、これは足。」と違いを示しながら感じてもらったところ「ああ、分かった」と。でも、やってみましょうとなるとやはり何か過不足がある。その部分を説明するに、またもや言葉の壁。ここで残念ながら私が東京の練功倶楽部へ向かう時間となったので、これまでとなったのだが、練習の最中に「あなたは良い先生だ」とも。ありがたや。何かいろいろな意味で勉強となった1時間であった。

コミュニケーションには一方的ではない双方の歩み寄りが必要である。合気の繋がりと同じと言って良いと思う。相手が忖度しないとならない繋がりは純度がまだまだであろう。よかれと思っても相手のカラダの状況は刻々と変化する。全部含めて繋がる感覚の共有ができれば、下手に共通言語があるもの同士よりも、「にやり」と意思疎通できる練功が楽しめるかもしれない。

年内のブログのアップは今回がラストです。おつきあいいただきありがとうございました。
良い繋がりを目指して修練してまいります。
皆様、良いお年をお迎えください。

とある塾生の雑記その5 「逆転の発想」

とある塾生の雑記その5 「逆転の発想」

合気練功塾には数々の逆転の発想があります。武道・武術・格闘技の経験者であればあるほど、今までの常識から脱却できずにもがき
苦しんでしまい、結果的に素人の方が早く上達してしまうなんてことが起こります。今回は、この逆転の発想についてお伝えします。

① 自立しない、相手に委ねる
合気練功塾では、接触面で互いに引っ張り引っ張られて、二人で一つの重心を形成するという関係性を重視します。最初は互いの踵が
浮くぐらい不安定にしてその感覚を体に染み込ませます。ほんの少し相手に委ねることで、無意識に相手が緊張して裏の力などが通り
やすくなります。私は暇を見つけると、ドアノブや机を相手に引っ張り引っ張られの状態を片手→5本指→3本指→2本指→1本指で
作り出し、この不安定な感覚を意念で再現できるように一人遊びを楽しんでいます。

② 相手に合気をかけない、まず自分にかける
これは塾長に手を握ってもらうと大変よくわかります。合気の体の状態で握られるとその瞬間から接触の柔らかさと相まって、優しく
何かが侵入して自分の体を変えてしまうような独特の感覚に襲われ、何も贖うことができなくなります。少しでも痛いとか不快だとか
を感じ取れば、拒否反応や逃避反応も起きるのでしょうが、その心地よさに思わず笑いがこみ上げてくることもあります。本当の施術
家の手とはこういうものなんだなとしみじみ思います。

③ 力で挙げない、勝手に上がる
合気上げには色々なやり方がありますが、合気練功塾のそれはほとんど力を必要とせず、ミリ単位の重心操作で相手が勝手に上がって
行きます。動画では挙げているように見えますが相手の手に追従して上がっているだけです。体が上がるためには「ここ」という一点
があり、最近の個人レッスンでこの深遠なる「ミリの世界」の一端を垣間見ることができましたが、微視的にそのポイントを探そうと
すると結局力みが生じてしまい、失敗してしまいます。あれこれ探すより自分で作るのが近道なのかなと思う今日この頃です。

Tスタイル 〜合気練功の日々〜 「合気の3S」

Tスタイル 〜合気練功の日々〜
「合気の3S」

合気練功塾に入って1年が過ぎましたが、相変わらず暗中模索の日々が続いています。今回は、合気を習得するために捨て去るべき3つの点、即ち3S(捨てるのS)を私なりにまとめてみました。

①筋力を捨てる
もちろん、身体を動かすための最低限の筋力は必要です。しかし、私達が筋トレや武術の鍛錬などで普段使っている筋力は、合気の身体をつくる上では障壁となってしまうのです。筋力に頼らず、全身がゴムで繋がったような身体をつくる為の練功が必要です。

②経験を捨てる
合気に魅せられた人々の多くは、様々な武術を経験しています。そこでの身体操作や感覚を身に付けた人々は、時に「この場合はこうしなければならない。」と思いがちです。合気揚げをする時にも、その経験から身に付けた「癖」が出てしまいます。以前のブログでも書かせていただいたように、大切なのは相手が「あがりたい!」と感じる状況をいかにつくるかということです。そこに焦点を当てなければなりません。

③疑念を捨てる
練功塾では、意念ということをとても重要視しています。思ったり感じたりすることで、大きく身体を動かさなくても自分と相手の双方の身体が変化してきます。しかし、この意念のトレーニングは地味で時間もかかります。「そんなことで身体が変化するのか?」という疑念(疑う気持ち)が生まれてきます。こうした気持ちを抱いたまま練功をしても、得られるものは少ないでしょう。疑問はもっても、疑念は捨てるべきです。

個人レッスンで気匠庵(松原塾長のお宅)にうかがう際、勾配がきつい上り坂があります。私はその坂を「合気の坂」と勝手に名付けています。まるで、合気を習得する困難を表したかのような急な坂です。しかし、(得るものがとても多い)個人レッスンを終え、その坂を下る爽快感は格別!(考えてみれば下り坂なので楽なのは当然ですが・・・。)

もちろん練功しながら(身体を揺らしながら)歩いているのですが、先日下校途中の小学生と目があってしまいました!
驚かせてごめんなさい!変なおじさんではありませんよ。いや、ある意味、変なおじさんかも?

合気練功 分析と断片化について

肩が繋がるように少し上へ圧を掛け、握られたところの皮膚を引いて、前足底に重心が来るようにする。自分のカラダも部分の操作にならないように繋げて、かつ不安定さをつくる。きちんと繋がることができれば自分が根こそぎ持って行かれるようなゴム感覚をつくれる。合気練功の手順としてはこんな所であろうか。
手順を説明するときは分かりやすいと評してもらえるが、自分の練習の時は相手からゴソゴソしすぎと言われることがある。実際、少し上に圧を掛けての操作は必要な大きさを通り越してしまう気がする。「皮膚を引いて‥」も引き過ぎているように思うことがある。

合気の繋がりは感覚がとても大事である。繋がれたかどうかを知るのは感覚だからである。上手くいかなかったときの分析は、オンライン動画のテロップ制作やこのブログに取り組んできたことで知らずに長けているのだろう。確かに合気練功の理屈は良く説明できるようになったと思う。でも、上手く繋がれたときはそこまでいろいろな手順を踏んでいないなあと自省する。結局、一つ一つの手順の積み上げでは部分の操作になっていて全体での操作になりにくいのだと思う。できていないところにさらに何かを加えても、できていないが膨らむだけのようだ。できていないと何かを行って出来ている状況にしようとするのは人情である。技術を習得するにはいろいろな説明がないと何をやったら良いのか分からない。練習の段取りが準備できているところが合気練功塾のスゴイところだが、最終的には直感なのかもと思うことがある。

先日、院生全員で合宿を行った。技術の練習も実りの多いモノであったが、夜の酒行での意見交換(?)でも多くの事を気づくことができた。
ある院生さんの表現、「プッと皮を採って‥」、「ブ~~ンとゴムを引いて‥」、「ヒョイッと乗って、」
オノマトペが最強の最終奥義・伝授なのかもしれない。