筋肉の収縮には、求心性収縮と遠心性収縮がある。
求心性収縮は、筋繊維を縮めながら力を出す。それに対して、遠心性収縮は、筋繊維を伸ばしながら力を出す。以前に説明したように、コップの水を飲もうとして口に近づけて来る行動が求心性収縮で、飲んだコップをテーブルに置く時の行動が遠心性収縮である。この時、「飲みかけの水がこぼれない様に」とか、「勢いでコップが割れない様に」などと筋肉を伸ばして力加減を調節している。
そして、このどちらが、合気で使用できるのかと問われれば、もちろん「遠心性収縮」なのだが、それだけでは、不十分なのである。なぜか?
伸びた筋肉が戻って来なければ何も起こらないからである。初めの頃は、せっかく遠心性で伸ばした筋肉を、禁断の求心性収縮を使い戻そうとして、次の瞬間、自分が浮かされてしまい、絶望を覚えるという経験をする事になる。では、どうすべきか?
相手に引っ張られて筋肉が伸びた時、戻そうと思っては駄目なのである。いつ引っ張られても、きっかけ一つで戻れる様な仕組みを作るのである。
「思う」とか「意識する」以前に、戻ってしまうよう「システム化」するのだ。そのために、ゴム感覚が必要なのである。
ただ単純に腕を伸ばしても、何も起こらなくて2人の間に気まずい空気が流れるか、相手に引っ張られて終わりなのだが、自分の身体にゴム感覚が内包されていれば、相手がどれだけ強い力で自分を引こうが、その力は自分を引っ張る力として使う事はできなくなるのだ。
理屈としては、何度か書いていると思うのだが、引いた時点で相手の重心が腕に移動するので、足は浮いている状態で自分を引き込む事が出来ない。また、2人の身体は、ゴムを通して足裏から足裏まで繋がっているので、相手が自分に影響を及ぼそうと力をだしても、直接自分には伝わらず、ゴムの張りを強化することに使われる。
繋がって一本のゴムのようになった2人の身体は、1人が自分勝手に相手を引っ張ろうとしても、2人ともに同じテンションが掛かり伸びるのだけなのだ。そして、一杯に張られた状態のゴムの端である相手の足裏を剥がせば、ゴムの戻りで相手が前に出て来ることになる。
「2人で作った弓で、相手が勝手に矢となって飛んで来る」、こんな仕掛けを作るのだ。