虹をつかんだ男のココだけの話

虹をつかんだ男のココだけの話「無知の知」

「使用禁止の筋力の代わりとして、弾力の揺り戻しも動力源として使用する事が出来る。又、身体に内蔵する事により、物を運ぶ事も可能である。」

これは、私が合気練功塾に入門するまでは、全く知らなかった合気の常識である。

合気を修得するに当たって、筋力→弾力→磁力→磁気→合気の順を追って進んで行く。
なので、筋力しか知らない人間が、一足飛びに合気を掴む事は出来ない。

弾力→磁力→磁気の説明が無い塾や道場に集う合気志願者は、筋力の呪縛を解く事が出来ない為、泥沼に嵌まり、アップアップしながら沈んで行く。参加人数=犠牲者数になるので、志願者の多いセミナーは、地獄絵さながらの悲惨さである。

そこでは、合気を使える人が育たない為、いつまで経っても、主催者しか教える者がいない。長年通う人間もいるにはいるのだが、それは、単なる主催者のファンであるようだ。だから、合気に関する知識だけはやけに詳しいが、合気を教える事は誰一人出来ない。

当たり前だが、そこに何回通おうが、幾ら支払おうが、本質は教えてもらえない。“脱力”だとか“力の出処”だとか具体性の無い話で煙にまかれるのがオチだ。

長年、筋力で物を動かして来た我々は、それ以外の術を知らない。筋力を使うのが常識なのである。その常識の範囲内で事を起こそうと思えば、“腕の角度”だとか“タイミング”だとか、相手にバレないとかバレにくい方法を探すしか無いだろう。

何かをしようとした場合、元々ある素材を増やす事は、比較的容易な事である。1を2にしたり、10にしたりは、根気さえあれば出来る。しかし、何も無いところからアイデアを生み出す事はとてつもなく難しい。

動力源として筋力しか思い浮かばない人は、筋力の次元で工夫する事しか出来ない。筋力の変わりを思い浮かべ、それを使える様に工夫する事は、一次元上げた発想になるので凡人には無理なのである。

たとえ、弾力の性質を知っていたとしても、道具などに使われているのが主なので、体の中で使える力だと思っていない。そもそも代用として思い浮かばないのだ。

これらは、知ってしまえば、何も難しい事でもなく、当たり前の事である事が多い、しかし、自分が思考している次元には、発想の種が無いので育てようがないのだ。

だから、教えてもらうより他に方法はない。

合気練功塾では、原理に「裏の力」がある。もちろん、筋力=「表の力」に対する「裏の力」である。作り方も使い方も教えてもらえます

 

虹をつかんだ男のココだけの話「魂の伝承」

10月16日・17日と愛知県犬山市で、第一回合気練功塾全国強化合宿が行われた。全国から約50名の方が集まり、1日目は13時から23時まで、2日目は8時半から11時半までと限られた時間を余す所なく合気修得のため費やした。

ここに参加した私は、とても有意義な時間を過ごす事が出来たと思うし、私以外の参加者もとても満足されていた様子であった。

松原塾長は、合気練功塾で練功を積む者を、もれなく“達人”にしたいと思っている。そのために、隠し事なく、何から何まで教えてくれる。また、素人や凡人にも修得しやすいメソッドを日々考えている。だから、その恩恵を受けた我々の成長は、当然速い。

また、塾長の思いは副長以下全員に浸透している。新人が入って来れば、自分が知っている事は教えたいし、上達のためのポイントがあればアドバイスは惜しまない。自分だけうまくなれば良いと思う様な器の小さい人間は誰一人存在しない。だから、出来る人が多数存在する現在、新しく入った人でも、加速度的に成長し、その進歩を確実に体験出来るため、自分の選択に胸を張れる。

そんな雰囲気の中で育ち、仲間と合気を広げたい思うスタッフが多数いる組織が主催する今回の合宿が成功するのは当然である。

そして、昨今の情勢下で、塾長の指導を受けられなくて歯痒い思いをされていた東京、大阪、福岡の松原塾の参加者の方も、今回久々に、直接指導を受ける事が出来、たくさんのものを掴まれたのではないかと思う。技術だけでなく、根底に流れる“松原イズム”も受け取られたと思うので、各々の塾で拡散して頂きたい。

近い将来、各地の合気練功塾で本物の合気を修得できるという事が、「決まりきった事実である」というのは、もはや参加者全員の総意であろう。

来年の開催(2022.11.5~6)も決定しているとの事なので、今から楽しみである。私も協力出来るよう力を付けたいと思う。

今回、諸般の事情により来ることが出来なかった方も、次回は万障お繰り合わせの上、是非とも参加される事をお勧めする。

虹をつかんだ男のココだけの話「ゴムの性質」

合気の現象化を起こすには、自分のゴム感覚を相手に共有させる必要がある。

そうすることで、ゴム感覚の無い相手でも、弾力の世界へ誘える。

まず手始めに、相手に対し、自分が作り出すゴム感覚を移していく。その時、相手の手に触れ、そこから自分がゴムを手首まで引いたとすれば、相手も接触点から手首までゴムを引いていることになる。それを肘・肩・肩甲骨・腰・膝と伸ばしていって、足まで引けば、相手も足まで引く事になる。

私自身、しばらく本気で、次の様に思っていた。相手と接触して、自分の世界の中で勝手に「手首・肘・・・足」と呪文のように唱えて、自分の中だけでゴムを繋げていけば、何故か相手も、自分が引くタイミングに合わせて、同じ位置までゴムを引いてくれるのだ、と。しかし、そんなテレパシー的な事が起こっている筈はなかった。

では、なぜ自分のゴム感覚が、接触点から相手に伝わっていくのか?と言うと、自分で接触点に発生した“点”のようなゴムをうまく伸ばしながら、相手にも伸ばさせているからである。自分が接触点のゴムを徐々に「手首・肘・・・」と引きながら、反対を持つ相手にもバランス出来る様なペースで引かせている。自分の方に引き過ぎないように、相手側にも均等にゴムを引かせる。その結果、五分五分のバランスを保ったまま、同時に足までゴムを張れるという訳である。この状態がお互いで引き合いながら、倒れないように支え合っている“超バランス”状態である。

そして、ゴムを引く時に必ず発生する感覚がある。「引く」と「引かれる」の相反する感覚である。ゴムは引っ張り続ければ必ず引き戻される。「引かれる」力は引き戻される時になって、急に出現するわけではない。引けば引くほど、引く分だけ、もれなく付いてくる。ほんの少しの引きに対しても、それ相応の引き戻しが発生している。だから、もし、「引く」感覚しかないのであれば、手段や方法なのか、意識なのか、何かが間違っている。ゴムと認識していないのか?そもそもゴムではないのか?分からないが、いずれにしても相手にゴム感覚を伝える事は出来ない。

虹をつかんだ男のココだけの話「引き合う」

合気の現象化を起こすためには、相手にもゴムを引いてもらうのが理想である。最悪でも、自分が引くゴムの端を持っていてもらう必要がある

人間の重心は臍の下辺りにあり、それを両足が作る面内に置く事でバランスを保つ事が出来る。その面から外れると重心は支えを失い、地面まで落ちてしまう。この状態が、倒れるとか、転ぶという事である。
だから、立っているという状態は、バランスを取るために足がうまく位置どりをして、重心を両足が作る四角形に収めているという事になる。

前回も書いたが、人間は転ばないように生活をしているため、足で踏んばって、手を自由に動かして作業する事が普通になっている。
この状態で自立している限り、合気の現象化は不可能である。相手も手を自由に使える体勢で作業をする習慣が染み付いている「人間」なので、どんなに静かに動こうと、手を動かす意図が伝わってしまう。

合気練功塾では、「合気とは、手と足の機能の逆転である。」と教わる。
足で踏んばっていてはダメで、手で自分の体を支えるのである。

「どういう状態?」という事になるのだが、すごく不安定な状態である。重力が有るため、足は地面に着いてはいるが、重心を足で支えるのではなく、手の方に引っ張り上げている。また、お互いが同じ状態になっているので、二人は、手の中で一つになった重心を引き合いながら浮いている様な感じで立っている。(この体勢、外見上は、足で踏んばって手を動かそうとしている状態と同じなので、それしか知らない常識人には、いくら頑張っても、そのようにしか見えない。)実際はお互いがお互いを支えとして立っているため、片方が消えると、もう片方も立っていられない状態なのである。

足が足の役目をして、十分に踏んばった上で、手を手前に動かした場合、相手には「引かれた。」と認識され、スカされるか、潰される。
しかし、自分が、足元がふらふらで、今にも倒れそうな時の「しがみつく」や、足が着かないところでの「ぶら下がる」といった「不安定」を演出することが出来た場合、相手は、「引きずり込まれる。」という恐怖から、反射的に「引き合う」事を余儀無くされる

この時の〈相手も引き合いに参加してくれた〉状態が、ゴムの端を持ってくれた状態「同調」であり、この時、一つになった重心を張力を使って操る事が出来れば、相手を容易く振り回す事が出来る。

虹をつかんだ男のココだけの話「結果として」

合気上げが成功すれば、相手は上がる。それは、とても見映えが良く、その不可思議さは、人に興味を抱かせる。だから、合気上げに魅了された人は、他人を上げたいと強く願う。

しかし、これは、何も知らない人が必ずハマる罠で、知っている人が回避させてあげる必要がある。当然だが、合気練功塾生で、深みにハマってケガをする人はいない。

「人が上がる」という結果を「人を上げる」に目的化した人の末路は、その夢を叶える事が出来ずに挫折するか、妙なテクニックや小細工を駆使した〝クセがスゴい合気上げ〟を身につけて悦に入る事になるだけなので悲惨である。

「人が上がる」は、結果であって、目的ではない。「人を上げる」を目的にすれば、その意図が相手に伝わるから妨害されるのである。

では、何を目的にすれば良いのか?

前回書いたように「弓矢」を作る事である。それも、弦を目一杯引いた弓である。引いた弦は絶対に戻る。「引く」事は目的を伴ったアクション(行動)であるが、「戻る」事はリアクション(反動)であるので、引く事によって必ず起こる。そこに意図が存在する必要性が無い

だから、何度も言うように、「人を上げる」意図を持つのではなく、「人が上がる」仕組みを作る意図を持つ事が必要なのだ。

実際、上手な人に合気上げを掛けて貰うと分かるのだが、最初は両足で踏ん張って腕を押さえ込んでいても、重心が足から手の方に上げられるにつれて、バランスをとるために手を使う事を余儀なくさせられる。

 

足より手の方に多めに重心が移ると、最終的には相手の手にしがみつくしかなくなる。はじめは押していたはずが、知らず知らずのうちに、自分の重心が上げられるにつれて、「倒れたら危ない!」という危機回避の本能が優先し、頼れそうなものにしがみつこうとするのだ。

 

側から見ていると体勢は変わっていない様に見えるのだが、掛けられている人間の状況は激変しているのだ。そして、まさにこの状態が2人で弓矢を作って引いている状態で、あとは軽い刺激が入ればで自分は上がる事になる。

つまり、出来る人は、「上げよう」と思っているのではなく、段取りを終えて「上がるに決まっている」としか思っていないのだ。

そして、もちろん、これは合気上げだけでなく、他の現象化にも当てはまる。