合気練功の功夫(工夫)について

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日曜日に行われる練功塾は、最初の一時間は院生が輪番制で前に立ち塾生の練功のリードを行っている。そこで院生のそれぞれの工夫を「奥義伝授」などと笑って指導しているのだが、それぞれの感じ方や工夫がいろいろとあって参考になる。

ある院生さんの案内に、自分の足裏感覚を留意するために500円玉を足の母指球で踏んでいる感じで意識すると良いとあった。「なるほど!いい工夫だ。」他の院生さんは「じゃあ、俺は100円玉。」、「じゃあ10円玉」と金額ではなくサイズを小さく競っていき、でも最終的に一万円札を挟んで破らないけど逃さないに落ち着いた。確かに昔の剣豪の逸話に濡れた半紙を踏んで破らないというものがあったなと思った次第。

「合気は脳をハッキングすることで行う関節技である」という理解の仕方。
ある院生の案内で、ゴム感覚は関節が伸びることで、伸長する関節の弾力性として解釈するとどうだろうかというものがあった。従って人差し指を握られたときは中手骨、手根骨、肘、肩と多数の関節の弾力性を利用できるが、手首を握られたときは肘と肩関節のみの弾力性で制御を行うことになり、より繊細さが要求されるという説明であった。
塾長の説明では「関節が伸長した結果、それ以上伸長させまいと筋肉を収縮させる無意識の反応(つまり反射)は脳をハッキングすることの一つの要素でもある」であったので、ほぼ同意を得ているのかなと感じた。
確かに手首を掴まれると相手の力を感じてしまい、こちらも力みが出てしまう。練功塾では力をぶつけないは当然の条件であるので、これはクリアしているとして、手首を掴まれたときの合気のカラダ(弾力性)として感じとると確かに少し物足りない。指を握られて相手を操作するのは力の世界ではありえないが、合気練功ではむしろこの方が分かりやすい。自分と相手の関節を巧みに操作する事が合気練功の技の一部であるということで「関節技」でもある。関節が増えることで動きを生み出す要素が増えるので無意識的に繋がりつくられるが、関節数が減ると大きな筋肉の動きで参入しやすく、精緻に操作しないと力がぶつかるということであろう。
通常の生活では何かしてやろうと思うから力むのだが、これを合気練功では「我が出た」とか「色気が出た」と表現していた。合気の繋がりは互いに動きが生じている状況だと私は感じているので、力がぶつかって弾力性がない状態では、相手の力で動いてもらえる状況は消失する。塾長はこの動きの事を「流れ」と表現して、ぶつかっている状況を流れがないと言っているのだと思う。

合気練功を技と思えば、何かしようと意識が出るし、一度の経験でテクニックとして盗むこととも可能であろう。しかし練功は感覚のトレーニングで、だんだんと感覚が鋭くなっていく(積みあがる)と解釈すれば功夫であり、継続することで意味が生じてくるのであると私は思う。

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