虹をつかんだ男のココだけの話

虹をつかんだ男のココだけの話「引っ張られる」

弾力を作る為にゴム感覚が必要である。
実際に使えるゴム感覚を作るには、自分が一方的に引くだけでは不十分である。本物のゴムはただ引けば、必然的に戻されるのだが、イメージ上のゴムは戻る事まで想像しなければ、紐や縄の様に引っ張り続けるだけになる。
引く時に自分の方向だけでなく、相手の方向にも伸びるイメージを持つ事で仮想世界でもゴムの様な弾力を発生させることが可能になる。

そして、この弾力の使用方法は、相手を「引っ張る」のではなく、自分が「引っ張られる」事である。
なぜなら、相手を引っ張ろうとした瞬間に自分の企みがバレる為、相手に簡単対処されてしまう。
引っ張られている分には、相手の意思に沿っている為、相手に抵抗感が出ない。そして、最終的に、「引っ張られる」事を止めた時に、伸びていたゴムが自分側に戻ってくるので、それを自分の足に回収すれば、そのゴムの反対側を持たされている相手は弾力に乗って、自分側に寄って来てしまう。

もう少し詳しく書くと、まず、相手の足と自分の足まで2人の身体の中にゴムを張る。この状態で止まっていても何も起こらないので、事を起こす為に、張ったゴムを自分側に引っ張る。引っ張られたと感じた相手も、態勢を立て直そうゴムを引いてしまう。ここで、大事なのは、「遠心性収縮」で身体の中のゴムを引き、2人でバランスを取る様にしながら、相手にもゴムを引かせる事。相手は「何故か分からないが引かれている」気がするので、自分の腕を押しながら踏み止まろうとする。

その結果、相手は、知らず知らずのうちに身体全体を弓の様に引きながら、頼った腕を支点にして相手自身を飛ばそうとしている事になる。後は引いている弦を弾いてやれば、自分の方に飛んでくることになる。しかし、最初から「求心性収縮」で筋力を使って引こうとするとと、腕そのものの引き合いになり、ぶつかったり、抜かれたりしておしまいである。

「引っ張られる」感覚とは、相手の引く力と自分の引く力がぶつかること無くバランスして、そこに出来る弾力でいつでも相手の引きに乗って飛んでいける感覚。自分を動かす事も出来るし、相手を動かす事も出来る。自分が、その「引っ張られる」感覚に乗らずに、体幹を使って耐えた時に、相手だけがゴムを引いている状態となり、そのゴムの引き戻しに乗り、重心を取られ、足裏を剥がされ自分の方に寄ってくる事になる。

「引っ張られる」感覚は、自分だけでなく、2人の中で弾力が発生している証拠であり、それが有ってはじめて、相手への影響が出る。

虹をつかんだ男のココだけの話「遠心性伸縮」

合気上げを見ると、掛ける人は肘を曲げて上げているように見える。しかし、何を見ようが、誰に聞こうが、「曲げてはいない。」と言われる。すごく困る。
これは、嘘ではないのだが、余りにも不親切である。そもそも、教える気が無いのだから仕方がないのだが。

しかし、合気練功塾で、松原塾長から原理を習った者として、それを共有すべき責務があるので、今回書いてみたいと思う。
ここに来て、手取り足取り教えてもらい、やっと理解出来たのだが、自力で発想するのは到底無理で、時間がいくら有ってもたどり着けなかっただろう。

前にも書いたと思うのだが、人は、目の前で起こった現象を自分の記憶や体験からしか類推出来ない。記憶や体験に正解がなければ、それを元にした答えも正解になることはない。
〝曲げている〟様に見えるのに〝曲げていない〟と言う者は、確かに〝曲げていない〟のだが〝曲がる〟様な仕掛けを確信犯的に行っている。
この答えが理解出来るのは、関節運動を行う場合、『求心性収縮』と『遠心性収縮』が存在するということを知っていて、尚且つ、『遠心性収縮』をしながら伸ばしている腕にゴム感覚を発生させられる者だけである。
説明しておくと、『求心性収縮』とは、筋肉を縮めながら力を出す方法で、『遠心性収縮』とは筋肉を伸ばしながら力を出す方法、例としては、コップの水を飲もうとして、口元に運んでくる動作が、『求心性収縮』で、コップを戻そうととテーブルに置きにいく動作が『遠心性収縮』。

普通の人生を送ってきた人は、対象を自分の前に引いてくる場合に、『求心性収縮』しか選択したことがないため、肘関節が曲がっているのを見た時、意識して〝曲げている〟としか思えないのだ。
しかし、実際ここで起こっているのは、ゴム感覚を持った腕を『遠心性収縮』で伸ばし、伸ばすのをやめた時の結果である。腕を〝曲げよう〟と意識しているのではなく、〝曲がる〟設定の腕を伸ばそうと意識し、それをやめた結果、無意識に腕が元に戻っていき〝曲がる〟のである。
合気上げとは、いきなり腕を曲げて相手を上げたわけではなく、上がるべくして上がる様、用意周到に仕掛けが施されているのだ。持たそうと出してきた腕は、見かけ上は止まっている様に見えるのだが、そこには上方向のベクトルが内包されている。腕を持った瞬間にゴム感覚を動力としたシステムが動き出し、最終的には、相手が自分で出した力が地面にぶつかり身体が上がり、その時浮いた分だけ、掛け手の腕が後を追っかけて来るのだ。

だから、結論としては、「曲げようとしても掛からないし、上げようとしても掛からない。」事になる。

虹をつかんだ男のココだけの話「弾力」

合気が不思議に見えるのは、掛ける人がほとんど動いていないからだと思う。しかし、本当に動いていないのならば、相手は動くことはないはずである。相手に変化が起きているのであれば、何かしらの動力が働いているということになる。

 

それが何かといえば、前回も書いた「弾力」である。ということは、普通に立っている時点で、自分の身体に「弾力」が無ければ相手に影響を与える事は出来ないことになる。

実際、合気が出来る人は、ただ突っ立っている様に見えても、「弾力」で充満しているので押せば押した分戻ってくるし、引っ張れば引っ張った分戻される。

合気を獲得するためにはこの「弾力」でパンパンに張った身体が必要不可欠なのだ。
作り方は自分でゴム感覚を作り出し、その感覚で身体の内部を伸ばすだけである。縦、横、斜めとゴムの本数を増やしていくことで、内側が圧縮された空気で満たされた様な身体が出来上がる。

そして、立っていれば足裏が、座っていれば脛が、地面とくっ付いているため、固定されたゴム毬の様になり、外部から受けた力は、身体のどこを押されも地面に打ち当たり戻って来ることになり、身体のどこを引かれても、最終的には、地面に引き戻されることになる。

例えば、地面に固定されたバランスボールの上に飛び乗れば、一旦は沈むが次の瞬間には跳ね上げられるし、そのボールを、引っ張り続けても、最終的には地面に引き戻される。実際には、何も不思議ではなく、当たり前の事しか起こっていない。

人が何もない状態で相手を翻弄している様に見える合気の実体とは、「弾力」のある人が相手と地面の間に入り、上手に喧嘩させているのだ。当然、相手が出す力はことごとく、出した本人に返ってくるため、勝つ事は万が一にも無いことになる。

by 宮崎

虹をつかんだ男のココだけの話「ゴム感覚」

合気習得の上でまず取り組むべき課題がゴム感覚である。

この感覚が無いと何も始まらない。しかし、普通の人は、その感覚を持っていないので、作り出す必要がある。その人にとっては、元々無い物なので、「有る」と思い込むことから始まる。

まずは、両手を合わせ、指と指の間で作り出すのだが、元々無い物なので、指をくっ付けたり、離したりしても全くなにも感じられないと思う。そして、時々、その行動を客観的に見ている別の自分が現れて、「こいつ大丈夫か?」と思うこともあるだろう。

しかし、その思いを振り切ってこそ道が開ける。「有る」と信じてやっていると脳が変性意識に入り、この感覚が現れ出す。薄い感覚を感じたら、自分の経験を総動員して、濃厚な感覚に作り変える。嘘から始まり、嘘を膨らませ、嘘を信じ込めば嘘が本物になる。

自分で自分をだませれば、指や手の平にゴム感覚を作る事は、そんなに難しい事ではない。それを他の場所でも感じられるようにする。

この感覚が大事なのは、合気で相手を動かす力になるから。

人は、押したり、引いたりする筋力に対しては、数多ある経験から、その行為に対して、自分なりの対処法を持っている。自分より力が弱い者には上回る力で対処したり、力が強い者には、張り合わずに回避したりとパターン化した対応をする。だから、筋力を源泉とする行動は相手に読まれていて使えない。

そこで、源泉として、使えるのは、ゴム感覚である、弾力。

自分の足から相手の足までゴムを張り、そのゴムを引いて戻る弾力を使い、各々の足にある重心を2人で一つの重心へと作り変える。次にその重心にもゴムを付け、それを引っ張ることで弾力が発生する様にする。その弾力の効いたゴムを自分の足裏を剥がす事に使えば、自分が動かされることになるし、相手の足裏を剥がすことに使えれば、相手を動かすことが出来る。

体の内部を通し重心が弾力で引き寄せられるため、相手は根こそぎ持って行かれ、抗うことが出来ない。そして、重心を取られた状態で、その場で踏ん張ろうと握っている手に頼れば、それが推進力として働き、自分に頼りきった状態でくっ付いてくる事になる。

ところで、とても不思議なのだが、イメージ上のゴムも引っ張れば、必ず勝手に戻る。現実世界のゴムと同様に扱う事が出来る。自分のイメージも現実に介入出来るのだ。

まずは、ゴム感覚の標準装備を目指したい!

虹をつかんだ男のココだけの話「不安定」

『お互いが個としては「不安定」でありながら、2人でバランスを取りながら「安定」している状態をつくる。』
これも合気を学ぶ上ですごく大切な情報でありながら、合気練功塾に来るまで、他では教えられることが無かったことである。

2人で一つの重心を作り、その重心を取り続ける事で相手の身体をコントロールする事が出来る。
何故この様なことになるかは、お互いがお互いを支え合っているから。2人共相手がいないと立っていられない状態になっている。

だから片方が手を離そうと上に上げても、わざわざもう片方が追ってきて、不自由そうな体勢になってもくっ付いて離れないという不思議な現象が起こったりする。「いやいや、手を放せば良いだろう。」と思うのだが、放したくても放せないのである。無理矢理放せば、自分が倒れてしまうから。

人間は二足歩行であるが、2点で立っているわけではない。実際のところ、足は右と左、前と後の4点で四角形の面を作り、その範囲に重心を置く事でバランスを保っている。だから、それが2点の線や、1点の点になった時は、遅かれ早かれ、その上から重心が外れ転倒することになる。そうならない為、2点になった時は、本能的に何かに掴まり面を保とうとする。

その性質を利用して、元々相手が一人で自立していた状態に、知らず知らずのうちに自分の2点を貸し出す形で2人でバランスを取らざる得なくさせる。

それを意図的に作り出そうとする時、お互いが相手の存在を必要とする共依存関係になる必要がある。普通の状況で4点で「安定」している他人の前で、自ら進んで「不安定」な2点になってくれる人など存在しない。相手が乗ってくる条件として、自分の「不安定」は絶対条件である。
そして、その条件下で相手の本能が、「自分が助けなければヤバい、2人とも共倒れしてしまう。」と誤判断し、力を出す状況に至った時、お互いに支え合い、引っ張り合う事になる。それを知識のない人が側から見ていると「何でくっ付いているのだろう。不思議だ。」となるのだ。

しかし、「不安定」になるのはとても難しい。独りよがりで「不安定」になって、転倒しそうになっても自分の「安定」を捨ててまで、相手が助けてくれることは無い。そして、自分が4点で「安定」して相手を「不安定」にしようとすると、引っ張っているとか、押しているという風に受け取られるため、ぶつかるか、すかされるかで力が伝わる事は無い。

そこで、合気練功塾の教えでは、〈裏の力〉で相手に侵入し、踵をあげさせ前重心にして、自分も踵を上げた状態で前重心になって下から支える。あたかも杖の様な形になって、重心を重なり合っている手の部分に移動し、共有の重心を作り「個」としての「不安定」を作る。

そして、2人の足から足までを繋いでいるゴムを目一杯引く事で、相手に「足で踏ん張り、手で押さえていなければ自分の身体が持っていかれてしまう。」と思わせる事が出来れば、その力で相手が勝手に動いてくれる。