己こそ己の寄る辺、己を置きて誰に寄る辺ぞ…、清きも清かざるも自らの事なり。他の物に寄りて清むる事を得ず。
合気練功とは別の話。相手が掴みに来るところを、間を外して少し重心を基底面から外してやる。相手は立ち直ろうとするので力を出す。この力を利用して立ち直りが達成できないようにずらしつつ、相手の体幹に作用点が来るように誘導すれば技になると思われる。相手がどのような方向で立ち直りの力を発揮するかによっていくつかのパターンに分けることができて、技の名前がついているのであろう。この「間を外して」や「ずらしつつ」の部分が難しく、スピードとパワーが重要と考えていた次元からは、別世界の優れた技術だと思えた。
今、検めてこの手の技やその類の動画を見たときに、その多くは術者の意識が相手のカラダにあるように感じる。示演であるためであろうが、相手がどのように力を発揮してきたかによって各種の対応があるように見えてしまう。
合気練功の話。東京の練功倶楽部に出向く際に塾長から指導いただいた事なのだが、相手の接触を使って自分の足裏へ圧を感じると、おのずと相手の肩関節に圧が生じるようだ。今まで「放物線状に肩関節に圧をかけて…」と、自分が行っていたものは相手のカラダに意識があり、操作が分かってしまう(バレてしまう)。How to 物やマニュアル文化に慣れた身では、「どうすれば?」とすぐに念頭に浮かぶが、相手を何とかしようとする意図は外からも見て取れる動きに出てしまいやすい。
足を繋げる、足に繋げる、足が繋がる、足で繋がる、足と繋がる、足も繋がる。これらはすべて、原理の「足裏感覚」に集約される。合気の繋がりの結果、形成される足の動きや重心の位置のことで、合気の繋がりにおいて好ましい動きや重心の位置関係ができたかどうかを判断するために足裏の感覚を受容する必要があると解釈している。
センサーの部分も含めた合気のカラダで、何度も見直しを繰り返して深まっていくモノが合気練功であろう。要を成す術として考えると、やはり相手ではなく、自分の内の何かが重要に思える。各種アドバイスはいただけても、どの操作感覚が良いモノなのかは自分の感覚と照らし合わせて検証を重ねていくしかない。
冒頭の「聖句」。
所詮は同じかもしれないと期待するのだが、相手にちょっと寄りかかって繋がる部分は「ちょっと貸してね」で他のモノに寄っている。自立はしていない。ここの部分はもう少し腑に落ちる解釈ができるといいなと思う。