先日、3連続の東京集中講座の最終回が行われ、今回も参加された受講者の方々と楽しく練功することができた(打ち上げの会では歓待を受けました。本当にありがとうございました)。月1回、合計3回の講座であそこまで感覚を得ていらっしゃる状況に少々驚きを、そして合気練功に対する熱意に敬意を感じた。聞くところによると自主的に練習会を行って功を積んできたとのこと。素晴らしい!
やはり合気練功の胆は「感覚」である。アスリートが練習を怠たり、試合から遠ざかると勝負勘が損なわれるが、それと同じように絶えず感覚を意識して磨いていかないと合気練功の勘どころは鈍る。鈍ればやはり思うようにいかなくなる。定期的に練功して感覚の維持に努めて琢磨していないと、容易に振り出しに戻ってしまう(最近、足圧の技術に衰えを感じて焦っております…)。
以前、自分の仕事が忙しくて月に1,2度しか練功に顔を出さなかったとき、塾長から「もう少し間を詰めて集中してやればわかるようになるのだけどね…。」と言われたことが懐かしく思い出される。
また相手の個人差や異なった姿勢になった場合もその感覚は違ってくる。例えば相手の足が並行なのか、前後に開いているのかだけでもカギとなる足裏まで到達する感覚は異なっている。一端、気付いてしまえば皆同じなのだが、私の場合は多様な状況の中で共通する感覚を拾い上げる練功が毎回必要である。様々な状況でも共通の感覚が得られるように繊細に日々の練功を行っている。
しかし、一つ一つを自分のカラダから拾い上げる作業が今は楽しい。合気練功を武術の技のカギのようにとらえていた時は「こんな途方もない技術修練…。」と凹んでいたこともあるが、それは自分の武術に合気練功を入れ込もうとするから大変と感じたのだ。
「感覚を耕し土壌作りをするのが合気練功である。良い土づくりができれば後はそこに何を植えようが自由である。」と塾長は言う。合気練功は単なる技ではなくいろいろな事のベースとなるカラダ作りと捉えるのが正しいと思う。
花か?野菜か?どんな作物を育てようかと思案するのも楽しい事である。良い土づくりできればこの先の良い収穫は期待できるが、土づくりそのものが楽しいのである。ともに良い感覚(耕作)をつくる場面を楽しみながら、「ああ、あなたは合気道なのね、あなたは太極拳、空手、気功、拳法、介護、美容、整体、~、~、~、人との関係にも使えるね。」などと、先々にロマンを感じる会話も乙だと思う。