少しの待ち時間。休憩時間。ふと気がつくと手のひらでゴム感覚をつくり、味わっている。これは私だけではなく塾生の皆さんもやられているようだ。合気練功塾の休憩時間でも喫煙組がタバコの煙をくゆらせながら、手は丸く合気の掌を作っているのをよく見る。これを練功熱心と表現するか、一人遊びと表現するか。
私が良く行っているゴム感覚遊びは、ゴム感覚を外へ向けて歩み出しを作ってみたり、抵抗感として味わって重心移動を試みたり、手を膝に乗せて皮膚の弾力性を確認して背骨へ伝えて丸めてみたり。皮膚のじんじんする感覚をカラダのどの辺りまで拡げていけるか操作をしてみたりしている。特段愉しいわけではないが無意識に始まっているのが実情。
ちょっと前になるが、練功の後で昼ご飯を摂ろうと塾長と駐車場を歩いているとき、2人とも腰から上は立禅状態の構えだったそうだ。たまたま近くのお店の中から我々を見かけた院生さん曰く、掌を内へ向けて丸く抱くような腕の形で歩いている姿ですぐに気がついたそうだ。店内からにこやかに手を振っていただいたのだが、傍目で奇妙な2人であったのだろうと想像する。
合気のゴム感覚を練功しているとき、基本的に気持ちの方向は自分の中である。背骨揺らしもそうだが、自分のカラダが動いていることを「感じる」脳味噌になっている。外の情報を受容して動かそうとする脳の使い方とは反対方向にあると思う。無意識で行っていると言うことは身体的に負担(嫌)ではないのだろう。むしろ内部へ意識を向けることで自律神経のバランスを取っているのではないかと考えている(単なる変な人ではないぞ!と、少々自己弁護)。また、「今」を味わっているという点でマインドフルネス似である。
少々古典になるがドイツのシュルツによる自律訓練法では、「重さ」が筋の弛緩、「温かさ」が心的緩和の催眠状態とされている。筋は神経支配によって収縮するので意識で筋が弛緩する部分が説明できないのだが、5元の練功で筋が弛緩して血行が良くなり、血流によって体温が運ばれてくる熱感というストーリーは成立する。内部感覚に集中することで外部への防衛や交感神経の支配は希薄となり心的緩和となるのだろう。物理的なストレス(食う・喰われる)が減少してはいるが、心的なストレスフルな現代社会において、ヨーガやマインドフルネスがもてはやされるのはある意味、必然のことなのかもしれない。
そんな展開も可能にするのが気匠庵の合気練功と考えている。