合気上げが成功すれば、相手は上がる。それは、とても見映えが良く、その不可思議さは、人に興味を抱かせる。だから、合気上げに魅了された人は、他人を上げたいと強く願う。
しかし、これは、何も知らない人が必ずハマる罠で、知っている人が回避させてあげる必要がある。当然だが、合気練功塾生で、深みにハマってケガをする人はいない。
「人が上がる」という結果を「人を上げる」に目的化した人の末路は、その夢を叶える事が出来ずに挫折するか、妙なテクニックや小細工を駆使した〝クセがスゴい合気上げ〟を身につけて悦に入る事になるだけなので悲惨である。
「人が上がる」は、結果であって、目的ではない。「人を上げる」を目的にすれば、その意図が相手に伝わるから妨害されるのである。
では、何を目的にすれば良いのか?
前回書いたように「弓矢」を作る事である。それも、弦を目一杯引いた弓である。引いた弦は絶対に戻る。「引く」事は目的を伴ったアクション(行動)であるが、「戻る」事はリアクション(反動)であるので、引く事によって必ず起こる。そこに意図が存在する必要性が無い。
だから、何度も言うように、「人を上げる」意図を持つのではなく、「人が上がる」仕組みを作る意図を持つ事が必要なのだ。
実際、上手な人に合気上げを掛けて貰うと分かるのだが、最初は両足で踏ん張って腕を押さえ込んでいても、重心が足から手の方に上げられるにつれて、バランスをとるために手を使う事を余儀なくさせられる。
足より手の方に多めに重心が移ると、最終的には相手の手にしがみつくしかなくなる。はじめは押していたはずが、知らず知らずのうちに、自分の重心が上げられるにつれて、「倒れたら危ない!」という危機回避の本能が優先し、頼れそうなものにしがみつこうとするのだ。
側から見ていると体勢は変わっていない様に見えるのだが、掛けられている人間の状況は激変しているのだ。そして、まさにこの状態が2人で弓矢を作って引いている状態で、あとは軽い刺激が入ればで自分は上がる事になる。
つまり、出来る人は、「上げよう」と思っているのではなく、段取りを終えて「上がるに決まっている」としか思っていないのだ。
そして、もちろん、これは合気上げだけでなく、他の現象化にも当てはまる。